偉人『夏目漱石』

夏目漱石を好んで読んだのは中学生のときだった。土曜の午前授業を終え帰宅後汗を流し、さっぱりとした気持ちで扇風機の前に陣取り、濡れた髪に風を当てながら読む漱石の世界は至福のときだった。本を読んでいると母から手伝いを頼まれる事も兄弟に邪魔をされることもなく、何より読みながら寝落ちする心地良さは今となっては若き日の追憶だ。

『吾輩は猫である』『坊ちゃん』のコミカルさが好きで何度も読んだ。起承転結からは程遠く自由に書かれているだらだら感がよかったのかもしれない。当時は書き手を選んで読む癖があり漱石読破に走りかけていた。先の2作とは間逆の『こころ』を手にし人間とは何だろう?人を裏切る、出し抜く、耐え切れない重さを抱えるとはどういうことか考えさせられ、自分の心情の複雑さを感じながら自分の心情さえ理解できないのだから、他人の思いはより分からないものだと感じた作品で漱石の裏側を見たような気になったのを覚えている。

時は流れ高校時代古典の授業中に恩師が「自分自身の道は自分で選ばないと遠回りをするものだ」と進路決定をする生徒に向けてのアドヴァイスを漱石の進学話を元に話してくれたのだ。恩師の話は街角でばったりと出くわした懐かしき友人の話のように聞こえ、漱石の本を借りにそそくさと恩師の元へ出掛けた。漱石好きの恩師の本にはアンダーラインが記され漱石の人間臭さが所狭しと記入されて面白い解釈本だった。そのお陰もあり我が子の文学暗唱をする際には多いに知識が役にたった。

前置きが長くなったが子供には何かを知ることに貪欲になり、自分らしく生きることができるよう常にいろいろな事にアンテナを張り巡らせキャッチできるようになって欲しいのだ。様々なものを見聞きし経験することでアンテナに引っかかることは自然と増えてくる。そして親は子供が関心を示したことがどのように広がるのか、どのように広げるべきなのか、また生きていくための糧として成り得るのかを見守るべきだと考える。

不思議なことに子供は生まれる意味や目標を持って生まれてくるんだろうと見せ付けられる瞬間がこれまでに幾度とある。そのことを親御さんと振り返り懐かしむと子供が無意識に発している言葉にこそ意味があるのだと感じている。今回は漱石が子供の頃に何度も訴えていたことに視点を置き紐解いてみることとする。

漱石の幼少期は大人たちに翻弄されたものである。彼は町名主の家に生まれたがすぐに金物屋に養子に出された。しかし姉が金物屋の店先にざるに乗せられた赤子の漱石を哀れに思い連れ帰るもすぐに別の家に養子に出される。その後2番目の養父母の離婚により10歳で生家に戻された。祖父母であると思っていた老夫婦が実親であると知らされ戸惑い、自分は要らない子なのかと複雑な感情に押しつぶされそうになる。兄弟とは年が離れ遊び相手も無く学校から帰宅すると蔵書の漢籍を読み漁る日を送る。成績優秀で中学に進学するも大好きな漢学だけを学びたいと退学を願い出るが、父は反対し兄が漢学は過去の学問で英語を学ぶよう強要した。しかし反対を押し切り進学したものの自ら想像していた学びではなく、次は戯作者として身を立てたいと申し出るも猛烈な反対の末、紆余曲折あり英文科に進学し教鞭を取り英国留学で心身を病んで帰国した。

そして帰国後の療養中に書いた『吾輩は猫である』を執筆してから子供の頃に夢見ていた戯作者としての道へと進むことができたのである。かなり遠回りをして物書きになったわけであるが49年の人生でわずか10年の短い時間であった。

幼い頃からの複雑な環境に身を置いたため神経質で負けん気が強く、精神的にも不安定である一面があったからこそ彼は現代日本文学の礎を築いたといわれるが、進みたい道に順調に進むことができたらどのような作品を書いていただろう。

なぜ漱石が負けず嫌いになったのか乳幼児教育者という観点から勝手に考えてみる。

子供は2歳前後でできるという価値観が育ち始め、何でもできるという幼児的万能感で溢れていき、やがてその思いが叶わなくなると癇癪を起す。幼い頃の負けず嫌いはこのできないという感情から発生し突発的に起こるものである。それが何度も繰り返されると癇癪と成長と共に現われる子供特有の力比べが作用し、友達よりも優位に立ちたいという負けず嫌いに変化する。負けず嫌いには長短所があるがその長所に向くように育てればいいが、漱石は短所の方へと進んでしまった。

長所は忍耐があり努力で集中し最後まで諦めなずに物事に対峙し、向上心を持ち得意分野で自己を高め磨きをかけるか方向へ進むことが多く、一方短所はできないことへのストレスが溜まり、苦しい思いや劣等感を抱きやすく自己嫌悪に陥りやすい。また人の話に耳を傾けられず素直になれず、結果だけが全てであるという考えや結果が出せないこと、負けてしまうと分かると気力が失われモチベーションが上がらないのが特徴である。


漱石は10歳までを他家で育ち、幼い頃からものを与えられては恩着せがましく「将来は親の面倒を見るのだ」と口やかましく言われ続け、養母は相手によって態度を変える一面があり漱石は自分自身もそのような浅ましい人間になるのかと不安を抱いたという。養父母の離婚が決まるとすぐに生家に戻される。

賢いだけに自分とは一体なんなんだろうかと大人に対して苛立ちもあったであろう。生家に戻されてからは、事あるごとに庇いだてした生母を悲しませないよう厳しい父や長兄に逆らうこともできずにいた。彼の負けず嫌いはそのような環境下で出来上がったものであると考える。またイギリス留学で経済的な貧困と学びの意義が見出せないことが理由で鬱病になり、大親友の正岡子規の病死により精神的バランスを崩し帰国し療養生活に入るが、被害妄想が激しく家族にまで手を出した話も残っている。がしかしそんな漱石を妻と仲間が支え執筆活動を行うようになってからは心が安定した。やはり人間は自分自身を活かし活躍する場所を得ることが重要で、自分自身の気持ちを押し殺してまで進むべきものではないのだと教えられている気がする。漱石には8人の子供がいるが上の子供達は父漱石を怖がり、機嫌を損ねないようにと育つも、比較的漱石の精神が安定した頃にものご心がついた下の子供達は父に対し愛情を持ち心通わせた話が多く残っている。また妻に対しての優しさも調べるとたくさんあることや多くの仲間が慕い集ったことから、本来の漱石は愛情深く豊かな心の持ち主であり、自分自身の思うように生きることを私達に教えているといえる。

漱石から見えたこと・・・それは子供に対して親の思いを押し付けないこと、子供自身が安心して生きていけるように愛情深い環境を与えること。そして子供が望んだことは頭ごなしに否定せずやり抜くことをできるだけサポートすることに尽きるのではないだろうか。

彼自身もこう語っている。

「人間の目的は生まれ持った本人が、本人自身に作ったものでなければならない」

子供は親の所有物ではない。親の目から見て不安がある場合でも子供が望むのであれば、親はじっと耐えることも必要なのかもしれない。子供自身が自分の責任で生きていけるようにすることが親ができる最後の仕事なのかとつくづく思い、多くの子供達が今日も無事に自分自身の人生を歩んでくれと願うばかりである。

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