偉人『宮澤賢治 母の教え』

大学の頃岩手出身の友人がいた。彼は宮沢賢治のことを『賢治』とあたかも幼馴染を呼ぶかのように親しみを込めて呼び、愛読書は『銀河鉄道の夜』であった。そして帰省後には必ずお土産として『イーハトーブ』と名の付くお菓子を配っていた。彼の影響で『銀河鉄道の夜』の奥深さを知り遅咲きの賢治ファンになったのである。

今週と来週金曜は『銀河鉄道の夜』を通して彼の幼い頃からの趣味趣向、母の教え、人生観、死生観、宗教観などを紐解きながら育つ環境で得たものを全て注ぎ込んだ賢治の魅力に迫ろうと考える。

1896年岩手県の質屋と古着屋を営む父政二郎と母いちの長男として生まれた。父とはそりが合わず揉めることの多い親子関係であったが、穏やかで明朗快活な母は眠る前に賢治に「人というものは、人のために何かしてあげるために生まれてきたのです。」と言い聞かせて育てたのである。

母いちは後々弟の清六に「なぜ賢治は人のために自分を犠牲にするのだろうか」と吐露した。すると弟の清六は「お母さん、あなたがそう育てたのですよ。」と答えたそうである。母の教えが彼の精神性の原点である。

利他精神に基づいた賢治独自の価値観が彼の作品には溢れているが、既に小学生でその片鱗が見える究極のエピソードが幾つも残されている。

例えば、教師からバケツを持ち廊下に立つように言われた友人の持つバケツの水を飲み干してしまったり、怪我した友人の傷口の血を吸い出したり、赤い服を着てきた友人が囃し立てられると、自分も赤い服を着るのでその様な行動を止めるようにと割って入ったそうだ。

素直な小学生らしい彼の行動は微笑ましくも見えるが、他人の血を吸うなんてことは決してしてはいけない行動であり、総合的にものごとを判断できるよういに指導をしなければならない年齢でもある。指導者や親がどのような指導を賢治にしたかは疑問であるが、広い視野での細かな指導はしていなかったと考える。なぜなら思い込んだら一途に行動し周りが見えなくなることが大人になっても抜け切っていないからである。

子供の頃の人を思いやる行動や正義感溢れる行動は勇気のある子として誉めるに値するが、賢治の場合徐々に自らを犠牲にし、人のために尽くすという行動へと変化してしまったのである。しかし文学的側面から考えるとその生き方があったからこそ作品が成立しているのである。

職業柄の意見を述べるならば、幼少期のこうした一途な行動は時に頑固さへと移行する傾向がある。子供自身が良かれと思ったことが自分自身や他者にとって本当に正しいのかを教えなければならない。その点を欠いてしまったからこそ思い込んだらまっしぐら、人の意見に耳を貸さない頑固さとなり37年の短い人生に至ったのではないだろうか。


2021年8月20日『マザー・テレサ』も同じように凡人の私からすれば自己犠牲に近いような形で母の教えを根底に導かれるよう宗教の道へ入っていった。賢治もまた母の教えを深く心に留め自分の道を定めていったように思う。賢治の母が我が子がどうして自己犠牲を払うのか分からないということは、そんなに深く考えずに教えを説いていたと考える。


医学上、人が生まれる確立は単純計算で50~80兆分の1だそうだ。奇跡が奇跡を生んだような確率でこの世に誕生し、自分自身がいかに尊い命であるのかを親は認識させ、経済的にも家族愛にも恵まれている環境に感謝させることを最低限教えるべきである。賢治の母は『人というものは、人のために自分自身を活かすためにも自分自身を先ず尊び、周りの人間を幸せにするために自分を活かせ』と教えるべきであったのではないだろうか。

賢治を見ていると雨合羽や傘を持っているにも拘らず、それを小脇に抱えずぶ濡れで歩き健康を害し、自身の理想だけを信じ猪突猛進で駆け抜け生き急いだように思えてならない。

母の教えは子供の人生を大きく左右するものであることを認識して欲しい。

次回は賢治の幼少期の育ちが『銀河鉄道の夜』にどう反映させられているかを紐解き、読み聞かせのヒントになるよう記事をアップする予定である。

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