偉人『宮沢賢治と父』

賢治の『雨ニモマケズ』のイメージが強いのか彼を貧しい農民の出と勘違いしている人がいる。しかし彼の父は手広く質屋と古着屋を営んでいる実業家でかなり裕福であった。その父の家業を継ぐことを忌み嫌った長男の賢治は、どうしても質屋という職業に納得が行かなかったのである。

「人というものは、人のために何かしてあげるために生まれてきたのだ」母に教えられ育った賢治にとっては、貧しい人が質屋を訪れ家財をわずかなお金に換金し、借りたお金が返せなければ品物は流される。質屋はその品物を高値で売り儲けを出すある意味筋の通る商売である。正義感溢れ、人のために身を削ることも厭わない自己犠牲を良しとする賢治にとっては納得できなかった。

しかし貧しきものに対する思いとは裏腹な自分自身の欲求や行動に矛盾を感じつつも抑えることはできなかった。当時流行ったレコード収集にお金を継ぎ込むことやチェロを習い弾くこと、飲み食いにかかる金銭を湯水の如く散財するなどの貧しさとは対極にあるお坊ちゃんとしての自分自身に悶々とした。

当時家の商いは子供が継ぐものとされ賢治は逃避するも家業を手伝うことになり、欝の症状が出始める。この頃に心の安定を図るために童話を書き出したのである。しかし父との家業をめぐっての確執は収まらぬまま農学校の教師になり、その傍ら執筆活動を続け更に贅沢とは掛け離れた思想や父とは異なる宗教法華経に傾倒していくのである。さらに妹トシの死亡により自らの宗派で弔うことができず、父(家)の宗派で葬儀を行ったため賢治は反発し葬儀に参加しなかった。父と子の対立はより深くなっていく。


賢治の父・政次郎はとても息子を愛した不器用な人である。病人の看護は汚れ仕事と考えられていた当時、7歳の賢治が赤痢に罹る。すると家長であり商売を手広く行う父が賢治の看病に当たったのである。また賢治が人工宝石を作ろうと考えると援助をすることも覚悟し、質屋の跡取りに学問は要らないと言い放った祖父を説き伏せて進学させたのも父・政次郎であり、反対を押し切り質屋を継がず農業学校に進学した賢治に仕送りをしたのも父である。その一方で旧制中学を卒業して進学したいと言い出した賢治に、厳しく質屋を継ぐことを求め進学させないと言い放ってもいる。結局は農業学校に進学を許しているのだが、これも親の弱き一面であろう。子供が可愛くて仕方がない。でも将来を考えると厳しくしなければという葛藤があったであろう。

また賢治の遺言であった『国訳妙法蓮華経』を1000部刊行頒布を行ったのである。父は浄土真宗の檀家である。息子の遺言とはいえ宗派の違う宗教の刊行頒布を行うということは閉鎖的時代においては人の目もはばかれる所だが実行したことは父の愛情以外に何があるだろうか。

彼の作品は透明感溢れるどちらかといえば大人向けの童話が圧倒的に多い。その中の『雨ニモマケズ」の一説に東に西に南に北に行き利他愛を貫く様子が書かれているが、この猪突猛進、思い立ったが吉日的発想は農学校で教師をしていた頃、2月の真冬に寄宿舎の生徒を叩き起こし「西に行くぞ!」と凍りつく川の中を歩かせ、真冬の滝業に続くよう命じたそうである。このような突拍子もない行動は友人も巻き込んでひたすら東を目指すこともあった。彼の何かを求めて行動する生き方は周りの人間には大変なことであったに違いない。結核を患った賢治を心配し母と弟は食事を改めるよう説得するが、生き物の命を犠牲にしてまで生きたくないと言い放つ始末である。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を選んだのである。西に疲れた母あれば加勢はしても、目の前の母の想いには至ることができず、父の不器用だが大きな愛を感じることができない自らの哲学的自己主張を頑なに通したのであろう。彼の文学的な繊細で自己犠牲の優しさを父と母に最後は向けて欲しかった。特に父政次郎の愛情を回顧し南十字星に辿り着けたことを願言うと同時に賢治にとっての本当の幸せとは何かを『続・銀河鉄道の夜明け』として書き上げていて欲しかったと思う。


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