偉人『ヨーゼフ・シュトラウス』

シオの勝手に幼少期シリーズ年明けよりオーストリアのシュトラウス一家を取上げているが、なぜこの一家の音楽に心惹かれるのかを考えるか。それはもう美しい調べが解き放つ美しさや軽やかさに魅了されているからである。

今回は次男ヨーゼフに焦点を当てて幼少期を考えていくことにする。

次男ヨーゼフ・シュトラウスは1827年シュトラウス1世の次男として誕生する。

幼少期は兄ヨハン・シュトラウス2世と共に父の演奏に耳を傾け、今で言うミミコピで兄と共にピアノの連弾に興じたという。音楽家の子供はやはり音に触れる機会が多く絶対音感が育っていたのだと容易に想像ができる。母によって兄と同時にピアノの手解きを受けるが、彼が望んでいたのは音楽の道ではなかった。ヨーゼフは現在のウィーン工科大学の前身の総合技術専門学校に入学し、機械工学、製図、数学を学び工業技術者としてエンジニアの道を選びました。

1848年ヨーゼフはは革命に参加し父に軍人になるよう諭されたが、ヨーゼフはきっぱりと跳ね除けた。「私は人を殺すような学びはしたくはありません。人間として人類に、市民として国に有益な生き方をしたい。そうありたいのです。」くしくもヨーゼフはその言葉通り革命後工学技師として活躍し、兄の作曲した『美しき青きドナウ』とは程遠い濁流の荒れ狂うドナウ川の治水工事にも関わっていた。これは彼のこのあとの音楽人生を暗示しているようにも感じる。

ヨーゼフ22歳、父ヨシュトラウス1世が亡くなり、兄シュトラウス2世が父の楽団と自らの楽団を統合し、オーストリアの音楽界を一手に引き受けることになった。兄シュトラウスの仕事量は二倍以上になり、元々身体の弱い兄は病に伏し、母アンナが兄の代役を務めるようヨーゼフを再三説得にあたり、拒絶するも楽団を率いてマエストロの扉を開くことになったのである。後に妻になるカロリーネに『避けられない事態が起こりました。今日私は初めて”シュペール”で演奏します。こんなことになってしまうなんて、心の底から残念でなりません・・・・』に語っています。

ヨーゼフは自ら望まない指揮者デビューだけではなく、兄シュトラウス2世が依頼を受けた作曲もすることになり、これっきりと言う意味を込めて『最初で最後』というタイトルのワルツを作曲した。しかしヨーゼフの意に反して大喝采を浴び、次は『最後のあとの最初』という曲を発表し名実共に音楽家になる道を決断したのである。ここから本格的な音楽理論やヴァイオリンを学びシューベルトに大きな影響を受け、詩情豊かで深みのある作品を世に送り出していく。兄弟の中で一番の才能に恵まれていた音楽的センスが、人生の途中参加であっても大衆の心を掴んで話さなかったのであろう。事実兄シュトラウス2世は弟ヨーゼフの音楽性を高く評価した。華々しい兄の陰に隠れて印象の薄い人物であるが、彼の作品を耳にすると叙情溢れる音楽性に兄とは異なる知性を感じるのは私だけであろうか。

幼い頃意欲的に活動する兄と気難しい弟の間に挟まれ、控えめで争いや派手な行動を好まない平和主義のヨーゼフの人となりが垣間見える『天体の音楽』や『秘めたる引力』は彼の姿そのものなのだろう。

写真は三兄弟。向かって左から三男エドゥアルト、中央が長男ヨハン、右が次男ヨーゼフである。彼ら音楽一家の源流である父シュトラウス1世は長男ヨハン・シュトラウス2世を商人(銀行家)、次男ヨーゼフは軍人に、三男エドゥアルトを弁護士にしようとしたわけであるが、長男は音楽家となり晩年ロシアでの演奏や作曲活動で多額の富を稼ぎいだ。そして次男は技術技師として人々の暮らしや国家のために活躍し、後に国民のみならず全世界のクラシックファンを魅了してやまない名曲を世に送り出した技術者から転身した音楽家である。三男は本人の希望で外交官になりたがったが結局はオーストリアの宮廷舞踏会の音楽監督に就いた。父の意に反して音楽家になった息子たち。人には抗えない道というものがあるのだろうかとさえ勘違いしてしまうが、やはり子供には兄弟を助ける人生に身を捧げるよりも、自分自身で道を選択する道を親は選ばせるべきである。


Baby教室シオ

ほんものの学び。今必要な学び。乳児期から就学期までを総合プロデュースする沖縄初の乳児のためのベビー教室です。