偉人『西郷隆盛 母の愛を受けて』
西郷隆盛は下級武士の出でありながら薩摩藩主 島津斉彬に取り立てられ、坂本竜馬の仲介で敵対する長州藩木戸孝允と薩長同盟を結び、討幕運動の中心人物となり江戸城無血開城に尽力した維新の重要人物である。
江戸から明治へと近代的な時代へ移り行く中、多くの同士の尊い命を犠牲にしてまで倒幕に参戦した武士に対し、あまりにも冷たい仕打ちを行った新政府に対し立ち上がった西郷隆盛。彼が現代もなお「西郷さん」とさん付けで呼ばれ親しまれている人間力と子供の頃を結びつけ二度に分けて話を展開する。
1827年12月7日下級武士父 西郷吉兵衛と同じ下級武士出身の母 満佐の長男として生まれた。幼い頃は胃腸が大変弱く母は鰹節を煮出した療養食を与え大切に育てたが、子供の頃の身体的弱き部分は大人になっても少なからず影響を与える。彼もまた生涯を通してストレスに陥ると下痢が止まらない状況が何度も起きている。人格形成と同様幼少期の健康面もまた生涯の健康を左右するものだ。親はその点に気を配りながら育てることは最も重要なものであることはいうまでもない。
隆盛の幼少名は小吉、成長するにつれ体は大きくなりかなりのやんちゃぶりで従僕らに叱られることも増え始め、とうとう母満佐は厳しく躾けることを実行した。母の口癖は「武士道とは何か、嘘はつくな、自分自身を恥じることはしてはならないぬ。」と常に言い聞かせていたのである。
ここで母とのエピソードを語っておく。
西郷家は年棒47石、今の経済価値に換算すると282万円で家族11人を養わなくてはならず、かなり生活は苦しく朝から夕方まで家族総出で畑に出て農作物を育て、母は内職をしながらどうにか生計を立てなければならない状況であった。そのことについて母満佐はこう教えたのである。「貧乏は恥ではない。貧乏に負けてしまう事が恥である」とし、薩摩特有の郷中教育の教えである『負けるな』という教えを日頃から説いていたのである。
また13歳で肩から右腕にかけて小吉に恨みを募らせた人物から刀で斬られてしまった。当時薩摩では刀を鞘から抜き人に斬りつけた者と斬られた者も死罪となるおたさがあり、咄嗟に小吉は相手に対しこの事は無かった事にしようと伝え腕を押さえながら帰宅した。すると暗闇で自分の帰りを心配して待っていた母満佐がこう言葉を掛けたのである。「血が出て痛かったでしょう。治療しましょう」とだけ言い、息子のその様子から全てを察知し受け止めたのである。その母の言葉と対応に声を挙げて彼は泣いたのである。後日その泣いたことを友人に揶揄されると彼はこう語ったのである。「痛くて泣いたのではなく、母が恋しくてないたのでもない。母に迷惑や心配をかけてしまったという申し訳なさで泣いたのである」郷中教育を受けている武士の子供であるということもこのような発言を引き出したのかもしれないが、やはり母と子にしか分からない心の通じ合った瞬間がそうさせたのであろうと考える。
子供の状況を目の当たりにした時に全てを察知するということは、日頃から子供との関係性を密にしなければ実行できないことである。私が常日頃賢いお母さんだと感じている方々の行動を見ていると、子供の前でマイナスの感情や表情を現さない、態度や行動でも示さない方々である。その逆で子供に負の感情を抱かせてしまう対応は、大きな声をあげたり、小言を捲くし立てるように話したり、がっかりさせるような表情を子供に投げ掛けたり、ものに当たるなどの誰から見ても分かるようなものの他に、ため息を付くことも良くないことを理解してほしい。
母の日頃の口癖や態度が子供の人格形成に大きな影響を及ぼすことを是非理解して常に心に留めてほしい。母満佐は貧しくも明るい人物で7人の子供達の話に耳を傾けていた人物である。その母の愛情を一身に受け西郷隆盛は人を思いやる気持ちを育ててもらったのである。
その家の母の存在は子供の育ちに関係することを念頭に置き、西郷隆盛が人に慕われたことを紐解いていくことにする。
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