偉人『愛を持つ高村光太郎』
私は母の音楽的影響を多く受けていると何となくは感じていたが、ブログを開設以来予想以上に影響を受けていることが明白になりつつある。今回取上げる高村光太郎もまた母の口ずさむ歌が直ぐに甦った。とても古めかしい曲で私が歌うと子供は「どうしてそんな歌を?」主人からは「どうした?」と言われるが、高村光太郎や東山魁夷の『道』を鑑賞すると自然と湧き上がるのだから仕方がない。コンビア・ローズ『智恵子抄』と探せば皆さんも容易にその古めかしいメロディーと奥深い夫婦愛の作品の扉を開くことができるであろう。
今回は一夫一妻プラスおめかけさんという男尊女卑時代には珍しい夫婦の形を彫刻家であり詩人の高村光太郎と洋画家智恵子の夫婦の形を考え子育てのヒントを得てみようと考える。
1883年3月13日日本を代表する彫刻家高村光雲と母わかの長男として東京都台東区で誕生。母は相当の苦労人で気立ての良さから光太郎の祖父に認めら光雲と結婚することになった。母わかはとても感の良い人で多くの子供を育てながら家を切り盛りし、夫光雲にも仕える昔ながらの日本の母であった。また祖父はその筋の人で町一体を仕切り、光太郎は幼い頃から喧嘩や騒動を治める地回りの祖父様子を目の当たりにした。その一方でどんなに疲れた日であっても体の不自由な曽祖父を背負い銭湯に出掛けていた様子も見ていた。
一方光太郎は彫刻家の息子として子供の頃から木彫をすることを受け入れ、父と同じその道へと進み、父が教鞭を持つ東京美従学校を卒業後、ニューヨーク、ロンドン、パリで彫刻を学んだのである。しかしパリでロダンと出会い彼の力強さ生命力溢れる作風に感化されて傾倒していく。帰国後そのパリで学んだ彫刻を受け入れてもらえない孤独感と父の彫刻が典型的で単なる木彫師として捉える見方しかできなくなってしまったのである。親子間の芸術に対するずれも抱え光太郎の行動は不良性の一面が見受けられるようになったのである。
生命の息吹を彫刻で現し世に知らしめようとすればするほど袋小路に入ってしまった。その彼の精神面でも芸術面でも閉ざされた世界を打破してくれたのが、後の妻になる洋画家の長沼智恵子である。
光太郎だけではなく光雲もまた智恵子の登場を喜び、生活に困窮する息子夫婦を支えるために光太郎には内緒で智恵子に生活費を渡していたのである。息子のプライドを傷つけることのないように配慮した父光雲がいたのである。父子で同じ道を歩むことはお互いを尊重できなければ上手くいかないであろうが、どんなに息子が父と歩む道が違うと否定しても光太郎の作品には父の作品に対する思いが作品から読み取ることができる。
当時としてはまだまだ男尊女卑の残る時代であったが、2人はお互いを尊重するようにアトリエをそれぞれ持ち、家事も二人で分担し、光太郎は料理を作り智恵子に振舞うなど先進的考え方を共有している二人だった。
しかし親子の芸術家同士が苦しみを生むばかりではなく、生涯の伴侶として迎えたはずの智恵子を追い込んでしまう形になった。智恵子との生活で息を吹き返した光太郎は創作活動に活気を取り戻すことができた。しかし智恵子は元々持っている色彩異常の症状も加わり光太郎の活動を前に自身の絵画活動が行き詰ってしまった。運が悪いことに実家の造り酒屋が破産し心の支えであった家族も離散、徐々に智恵子の精神は変調をきたしたのである。
智恵子の症状が悪化していく中であっても光太郎は献身的に寄り添った。弱きものに寄り添う姿は祖父が身を持って示していたことが幼いながら印象強く残っていたのであるから、壊れ行く妻に寄り添うことに抵抗はなかったであろう。また純粋で誰にも理解されない孤立状態から自らを救い出してくれたという思いが強く作品にもその思いが投影されている。
高村光太郎のように渾身の愛を妻にささげることができる人物は滅多にいないと思うが、やはりお互いが尊重しあい協力することがより求められるであろう。男児だから女児だからという子育てではなく、男児であっても女児であってもという考え方の元子育てを行うべき現代だと考える。
高村光太郎の詩には切なくて苦しくて悲しい思いを汲み取る作品であるが読んでおく価値はあるが、彼の『道程』には自然を尊重し生命力を自己のものとして人生の道を切り開こうとする力強い作品も存在する。人間は深い悲しみや苦しみから立ち上がると強さを獲得するものだまた納得である。
余談だが光太郎が尊敬したオーギュスト・ロダンもまた天才女流彫刻家をカミーユ・クローデルを追い詰めて発狂させたが、明らかに光太郎とロダンとの違いは相手に対して愛情の有無である。先週取上げた島崎藤村もまたロダンと同じような人物だった・・・男女共に誠意のある人を見抜くことを親として教えなくてはならないのだろうと思う。
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