偉人『レイチェル・カールソン』
沖縄に移り住んで春になるとことさら自然を感じる時期が来る。それが毎朝聞こえてくるメジロや磯ヒヨドリたちの囁きである。と同時にレイチェル・カールソンが記したこの『春が来ても、鳥たちは姿を消し、鳴き声も聞こえない。春だというのに自然は沈黙をしている。』を思い出す。生物学者であった彼女は元々文学専攻で執筆活動を目指していたこともあり、彼女の記した文章の端々に素朴な美しさを感じるのと同時に愛情を感じる。そして彼女が綴った自然の美しさを想像し共感することができる自分自身の育ってきた環境もまた過去のものとなり寂しさを感じると同時に、彼女の主張が異常気象や世界的災害の引き金になっている環境の悪化など現実のものとなり、今世界中が見直さなければならない帰路に立たされていることは間違いない。
今回は彼女が残した言葉から私たち大人が忘れかけていたものを思い出し、真の子どもの成長に重要なことは何かを考えてみたい。
彼女が世の中に知れ渡ったのはなんといっても著作の『沈黙の春』だろう。蚊を殺すために飛行機で殺虫剤を撒き虫や鳥が死んでいると友人からの手紙で知った彼女は、世界各国の科学者に質問状を書き、千以上の文献を読み漁り殺虫剤や農薬が小動物や海の魚を殺し生態系を破壊していることや自然を破壊し未来の人間社会にもそのしっぺ返しが来ることに警鐘を鳴らした生物学者である。彼女が秩序ある自然界に於いて人間がその中でも多くの叡智と選択権を持っている存在ではあるが、決して人間がその自然界の中の王者ではなく、地球上に存在する生物の一つに過ぎないことやその人間がどのように生きるべきかを力強く語った環境問題のパイオニアでもある。
1907年5月27日アメリカ・ペンシルべニアの農家の娘として誕生する。幼い頃から自然豊かな環境に囲まれ、彼女は本を読むことを好み子ども向け雑誌に作文を投稿することを趣味にしていたのである。当時のアメリカでは女性の教育は高校までが主流で大学に進学するのは恵まれた資産家の令嬢であったが、レイチェルの優秀さに両親は借金を工面して彼女を大学へ進学させたのである。大学進学時には文学専攻で作家志望でもあったが、大学の講義で生物学に触れその神秘性に心惹かれ文学から生物学へと進路変更をし、大学院では発生遺伝学を学んたのである。しかし折下世界恐慌で理想の職には就けず漁業局に就職し彼女の文才と生物学的知識でラジヲのシナリオライターとして活躍した。これがきっかけで彼女は世界で翻訳される作品「潮風の下で」「われらをめぐる海」を出版している。機会があれば彼女の煌めく言葉一つ一つの文学的センスにも触れて欲しいものだ。
これまでに私も環境保護についての文章を多く読んできたつもりではあるが、どれもこれも科学的な視点で書き綴られているものが圧倒的に多い中で、彼女の文章やその発言には作家志望であった彼女の心に響く言葉の力、いや言葉の魅力を感じずにはいられない。同じような主旨のことを綴っていても彼女が体験や経験、体感したことがこれまでにもダイレクトに感じることができるのはなぜだろうかと考えさせられてしまう。例えば農薬や化学物質がどのように自然界を汚染しているのかを忠実に研究や文献を紐解いていても、その先には我々人間が失ってはならない光景が目に浮かぶのである。
数年前に世界気候変動サミットでスウェーデンの環境保護活動家グレタ・トゥンベリ氏がものすご迫力でメッセージ発信をしていたが、勉強不足の私の印象でしかないが彼女からのメッセージからは破滅的で破壊的なものしか受け取ることができなかった。レイチェル・カールソンが訴えた半世紀前から環境の急激な破壊が進んでいるのであるから悠長な事は言ってられないのだが、私はやはりその問題は大人が解決すべき事であるがそれでも子育てをしているお母様方には、レイチェルの訴えている言葉を下に子育てに励んで欲しいと思うのである。
レイチェルはこのような言葉を残している。
「美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものに触れたときの感激、思いやり、憐れみ、讃嘆や愛情などの様々な形の感情が一度呼び覚まされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。」
「自然に触れるという終わりのない喜びは、決して科学者だけのものではありません。大地と海と空と、そしてそこに住む驚きに満ちた生命の輝きのもとに身を置くすべての人が手に入れられるものなのです。」
「見過ごしていた美しさに目を開く方法は自分自身に問いかけてみる事です。」
「知ることは感じることの半分も重要ではない」
「心が動いた時に、体も動く」
子供を日々見つめていると目を輝かせて楽しいという表現をする子供を目にすることがある。入室したての生徒さんは緊張した面持ちでレッスンに来るのであるが、その場合私は子供と目を合わさずに子供が私を観察する時間を設けるのが常である。「どうぞ私をご覧ください。こんな声です、こんな動きをします・・・」という具合である。子供自身が慣れてくれば後はこちらからのアプローチをどんどんしていく。これは私の直感的ものが発動されるのであるが、何をすれば良いのかなんとなく感じてしまうのである。すると大体笑みが溢れ、緊張した様子で入室した生徒さんが自ら手を振って帰るのである。正しくレイチェル・カールソンの「心が動いた時に体も動く」という言葉が実証された瞬間である。
子供には何かを教え込むことや知識をインプットする前には、感じる心、触れた時の感動や感触など実体験に勝るもはないのである。私が常々一定言葉の中に人工物ではなく、自然の中に身を置かせなさいということは、心が動く感動をさせよということなのである。
レイチェル・カールソンは環境問題を告発した生物学者であるが、彼女の奥底に眠っているのは幼い頃に過ごした農村の田舎での風景や自然の中で感じた感覚なのだと考えている。彼女が訴えていたものは、自然が持つその神秘性や不思議さ、時に厳しさ、逞しさなどを感じることができるような環境の保護であった。しかし私たちが今子供に残せるのは環境保護を考えて行動すべき大人の責任と、子供達が自分自身の目で見て考え、行動し何かを感じたら実行できるようにする教育ではないかと解釈している。
子供の頃、天久の丘の上でさくらんぼ取り、外人住宅に招かれてアメリカ人の子供とバッタとり、虫の少ない冬にみのむしを見つけては喜こび、キャベツ畑でモンシロチョウを日がな追っかけ、野良猫が咥えていたネズミに驚いたり、野犬には近寄らないように言われていたにも拘らず餌をあげたりと今覚えばし放題のことができていた時代である。私が昆虫が好きなことも、空や雲海を長時間見ていられるのも子供の頃の経験からきているのだろう。そして何より自分自身の強みである観察力や記憶力はこの自然に触れ合う経験が育てたものである。主人には「何十年前の情景や光景、人との会話を鮮明に思い出すことができる君は何んだろうね」と言われるが、これは正しく子供の頃に経験した自然の中に身を置いて予測したり、記憶のインプットとアウトプットをしたからである。家族で散歩したことや父との毎朝のジョギングが子供の頃のゴールデンエイジに鍛えられた今実感できる。
子供にはそれぞれの時期にそれぞれの能力を伸ばすタイミングがあることはこれまでの記事に記したとおりであるが、そこをちゃんとおさえさえすれば子供はうまく波に乗れるのである。私たち大人が目先の机上の学習に囚われすぎて、本来の子供の発達や成長とは真逆の方に進んでいたことに警鐘が鳴らされ始め、いろいろな教育法が出始めている現代で何が重要なものであるのかを見逃さないために親がすべきことをレイチェル・カールソンから学びとることができると考える。
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