偉人『ジョルジュ・ビゼー』

母の日があった今月皆さんも母子の思い出は数多くあるであろう。私が子供の頃はレコードというものを主として音楽を聴いていたのであるが、母はそのレコードの扱いには殊更神経を使い傷をつけないようにしていたためレコードの上に針をそっと載せたいと願い出てもなかなか許してもらえなかった。ある時私にだけ針を置くことを許してくれたレコードがジョルジュ・ビゼー作品集でなぜか『アルルの女 第2組曲メヌエット』だけが印象に残っている。今回は私の回想からジョルジュ・ビゼーの音楽性と彼の幼少期を絡めて子供の才能をどう見つけどう育てていくのか考えてみたいと思う。

1838年10月25日フランス・パリで誕生。父アルフレッド・ビゼーは元々は床山(美容師)をし、専門的音楽教育を受けていないが後に声楽教師として活躍する人物であり、母エメ・デルサルトは才能溢れるピアニストであった。母の兄はナポレオン3世の前で歌を披露した歌手でもありその家系は音楽家をいく人も輩出する家柄であった。そのような環境下で誕生したビゼーはいち早く母の手解きを受け、尚且つ父が生徒に教えている難解な曲を耳で覚え複雑な和声を同定し分析をする力を備えていたという。両親はその才能を確信してパリ音楽院への受験を願い出て、審査をした教授の後押しもあり入学の最低年齢に達していない9歳で入学を認められたのである。入学後も才能は大輪の花を育てるかの如く開き、半年後にはソルフェージュで最高位を獲得しピアノ科のジメルマンの目に止まり技巧に磨きを掛け才能を益々を伸ばしていった。

19歳で音楽家の登竜門であるローマ大賞を受賞し3年間のイタリア留学後、オペラ作曲家を目指し活動を開始するのである。しかし彼の才能はピアノにもあり、かのリストの難解曲を初見で楽々と弾きこなしリストが才能を認めたエピソードは有名である。ビゼーはオペラ作家として生きていくことを決めてはいたが、彼のピアノ演奏は格別な技能や才能を秘めたヴィルトゥオーゾに値するものであったとも言われている。

ビゼーは恩師アレヴィの娘を妻としたが妻のジュヌビエーブはビゼーの才能を全く理解できず見下すような態度で接し、彼が36歳で亡くなると息子を連れて名家の弁護士と再婚し社交界デビューをした人物である。彼女はビゼーの残した数々の作品に見向きもせず散逸させてしまった。妻自身も母親に見捨てられたような孤独さを抱えて成長してしまったがために誰かに頼り生きねばならないと考えていたのだろうか、それとも上流階級への拘りが強かったのかは不明であるが、もしかすると結婚自体に打算があったかもしれない。当時の音楽家はピアノ曲を作曲したとえそれが大衆に評価されようとも金銭や名誉にには結びつかず、生活は極めて厳しい状態であったという。しかしオペラ曲が人生で1つでも認められれば富と名声は約束されたようなものであった。実際ビゼーはオペラの上演にこぎつけても初演での評価は芳しくなく、また生前評価を受けることはできずいくつもの音楽的仕事を掛け持ちして生計を立てていたのであるから才能だけでは生きていけなかったのでろう。

しかしモーツアルトの妻のようにジュヌビエーブが少しでも芸術に関することに意識を向けることができる人物であったのなら早逝してしまった天才ビゼーの作品を私達は多く耳にすることができたであろう。

ビゼーの『カルメン』や『アルルの女』に登場する男性を翻弄する女性は自分の意思や主張を持って生きている強い女性が描かれていることもビゼーの言葉にできない思いや何かを意図するものがあったのかと考えてしまう。

しかし彼には良き理解者がいた。ビゼーが健康面ですぐれない時に彼の側でサポートし、彼の死後その作品を世に送り出したのは友人の音楽家エルネスト・ギローだった。才能の有る無しを肌で理解できるのは同じ芸術家ということであったのであろうか。ギローがいたからこそ私達はビゼーの音楽に触れることができているのも事実である。捨てる神あれば拾う神ありということなのだろう。そう考えると芸術家の周りにその真の価値を知る人がいるといないでは芸術が歴史に埋もれて後世の人々が知る手立てがなくなるという事だ。

さて話が少し重たくなったところでビゼーの音楽性について話をしよう。オペラとは歌が織りなすドラマであるとある声楽家が話していた。ビゼーのオペラ曲は聴き応えのあるものばかりで1つの作品に織り込まれている楽曲を多くの人が折に触れて耳にしていることは大変珍しいことであり、彼のさいのが溢れているとも言える。

大胆さの中に叙情的な音を感じ取ることができる『カルメン』『アルルの女』『交響曲ハ長調』や我が子が目の前で遊んでいるような生き生きとした生命力を感じる『子供の遊び』もあり、才能に溢れながらも恵まれない環境の中で生きるしかなかった人間くささというものを感じることはできない。日の目を浴びないジレンマや苦悩的なものを作品から苦々しく感じることはできず作品のあらすじを抜きに聴いている分には大変美しい旋律ばかりである。なんといっても『アルルの女 第2組曲メヌエット』はハープ先行で始まるフルートとの掛け合いは人が囁くような優しい旋律に虜にされ心惹かれ何度も効いていたくなる理、南フランス・プロヴァンス地方の牧歌的な風景を容易に想像させてくれるのだ。

ではビゼーがなぜ才能を求められずにいても美しい作品を描けるだけの精神性でいられたのかということを考えてみたい。第一の理由はやはり才能があるということで作り出す作品が枯渇していなかったということだろう。第二に若過ぎた死ということではないだろうか。もし彼が10年、20年と生きて評価が得られなかったら振り乱していたかもしれないが、そうのような時間が与えられなかったということも関係しているだろう。そして第三は彼の育ちと関係しているはずである。一人っ子であったがために音楽の才能を伸ばすために親はできるだけの愛情をもって育てたに違いない。純粋に音楽を愛することができるように、そして音楽だけに向き合えるように純粋培養的な育て方だったのだろうと想像してしまう。親は我が子に才能があればそれを伸ばすためにどうすべきか考えることを真っ先に優先するであろう。また誰かを意識して育てることもなく、子供のすべきことを明確にし働きかけをするに違いない。おそらくビゼーの両親は共に音楽家として生計を立てていたのであるからその純粋に音楽に向き合えるよう後押ししていたのは間違いない。環境が純粋に音楽に向き合える環境だったということが作品に溢れ出ているといえよう。

私もこの仕事をしていると色々なお子さんに出会うが純粋に愛情を傾けてもらえているお子さんの表情に不安や恐れ、怒りなどの表情を見ることはできない。ただその愛情の注ぎ方を間違えてしまうと不安そうにしていたり、人を信用できないという様子や笑顔がなかなか出てこない場合がある。ひとえに純粋に育てているといっても方向性を見誤ると子供を路頭に迷わせてしまうことを親はしっかりと理解しなければならない。


ジョルジュ・ビゼーは彼の才能を見抜いた親の導き方や育て方が彼の作品の中に息づいている。あまりにも早過ぎた死によって彼が生み出したであろう作品を耳にする機会がおそらく少なくなっているとは思うのだが、現存する中から彼の短い作曲家人生の輝きを感じとりつつ、子供の才能はどこにありどのように育て伸ばせばよいのかを彼の名曲から今回は感じ取って欲しいと思うのである。


余談・・・レコードに針を載せることが楽しくなった私は母の留守中にこっそりとその楽しみを味わっていたのであるが、ある時子門真人の『およげ! たいやきくん』の子供の手サイズのレコードが与えられた。当時一世風靡していたその曲を聴きながらジョルジュ・ビゼーと子門真人が似ているように見えてきてしまった経験を持つ私の思考は未だにその類似性から抜け出せずにいる。明らかに違うものを同じように捉えてしまう子供のものの見方についてもどこかで論じることができたらと考えている。

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