偉人『イマヌエル・カント』

GW真っ只中、間も無く5月5日を迎えてしまうのだがあまりの忙しさに記事を書くことを失念・・・このタイミングで偉人は誰にしようかと慌てて考えても浮かばない。ならば何かを書いてしまえと今パソコンにカタカタと文字打ちをしてしまっている安直で体たらくな私だ。タイトルの偉人名は空白のまま、ここ数日の出来事を思い浮かべて自頭の記憶のストックルームからどうにか偉人を捻り出そうとしている有様である。

数日前にふと夫の書架で見つけた『超訳カント』のことを思い出した。難しい本を手にするとよく私がする行動の一つに、本を手にして額に当てながら「今の私に教えるべきものがありますように」と唱え勢いよく開いてみる。そうすると難しい本はちょこちょこ手を出す事ができる。行動そのものは稚拙な行き当たりばったりなのだが面白いほどに現状にリンクすることが書いてあったりするものである。これはどうしてかわからないがトイレの神様ならぬ本の神様のいたずらであろうか。。。

ということで今回の偉人は『イマヌエル・カント』その人である。

カントの名が夫の口から出ると三批判書の解説論議が始まるのだが、いつもなら聞き耳を立てている素振りを見せて右から左へと軽く受け流すのがいつものパターンである。ところが今回ばかりは自分自身からカントの提唱した批判🟰物事を根源的に吟味し熟考する意味を探りに夫の説法に耳を傾ける覚悟をしたのである。暫し中断して夫との会話の中から記事のヒントの種を拾いに出陣である。


今回は比較的短い時間で話を終えることができた。それでも夕食の準備もそこそこに30分でこの記事を書こう。そうしなければあんぐりと口を開けるものたちから苦情が上がりそうだ。


さてカントの哲学書を読むには頭が疲れていない時に限る。疲れていなくても難解不落の世界に迷い込んで手ぶらで帰ってくることも多いため、主人の解説なしではあわや転覆するところであった。それではカントの人生と育ちについて考えてみる。

1724年現在のポーランドとリトアニアに接するケーニヒスベルクの貧しい馬具職人の家に生まれる。両親は敬虔なキリスト教信者で聖書の教えを守りながらカントを育てた。とりわけ母マリアは自然の中で子供に多くの教えを行い、道徳心を持って規律を守り生きることを教えたという。生涯規律正しく道徳心をもって人生を通したカントの姿は母の影響ということが言えるであろう。しかし母はカントが13歳、父は22歳の時に死別している。彼が生涯決まった早朝5時に起床し決まった時間を守り仕事をし夜10時には就寝した。そして散歩の時間さえも規則正しく行い街の人々が彼の散歩時間に時計の針を合わせたとさえ言われている。しかしそのようなエピソードを知るといかにも気難しそうに眉間に皺を寄せる哲学者あるあるに思えるのだが、なんと社交的で食事には多くの友人や学生を招き、仕事には関係のないユーモア溢れる談笑を何時間も楽しんでいたという。

難しい哲学を学ぶことは常に物事を考え、考えを止めることなくその世界に没頭してしまい人間性が失われていくような人物になりそうな気がするのであるが、カントの場合両親に愛情豊かに育てもらえたという事実と、幼い時期は多くの時間を自然中で過ごし母と星を見た経験は楽しい時間だったようだ。貧しい生活の中にあっても教育をしっかりと受けさせてたいという母親の愛情は並大抵のことではない。その幼い時の経験がカントに自分自身の力で哲学という学問の道を切り開き歩むことや学びの貪欲さを培ったと言える。当時の社会世相を鑑みると貧しい職人家庭の子供が手に職をつけるのではなく、学問を優先させるという選択肢を持たせる親などほとんどいなかったであろう。多くの貧しい家庭の子供は食うために働くことを優先していた時代であるそう考えるとカントの両親特に母親は教育の重要性を痛感していたに違いない。そして家庭での教育あってのカントの人生だったように思うのだ。


現代は義務教育が親の義務であるから学校教育を日本では受けさせなくてはならず、当然子供達ににも教育を受ける権利が認められている。しかし実はその義務教育以前にしっかりと家庭教育を行わなければならないことに気づいていない一部の親御さんがいることも残念である。そのことについてもう少し論じたいと思う。


子供と関わる仕事をしていると、嫌が多にもどのように育てられているか或いは育てられてきたかを気付かされてしまう。子供達の表情や仕草、態度や行動の根源が分かると言った方が適切かもしれない。

実はカントは幼少期は貧しい生活を強いられていたようであるから彼自身そのことについてはあまり語らなかったようであるが、母のことは熱心に語り温かな表情を浮かべていたという。そして彼は著書の教育論でこのような言葉を残している。

『人間とは教育されなければならない唯一の被造物である。』

被造物とは神が想像し作られたものという敬虔なキリスト教徒らしい発言である。決して人間をモノ扱いにしているわけではないことを先に記しておく。

そのカントの言葉の意味とはなんであろうか。人間以外の生物はみな教育を受けずとも本能に生きながらえ存在するが、人間は生きていくための教育を受けて初めて社会的活動が行え人として存在することができるという意味である。

つまり人間は教育を受けて初めて無限の可能性を獲得することができるということである。教育の最小単位は家庭である。親の関わりによる家庭教育があって次の社会的教育環境の保育園や幼稚園での生活、人との関わりや学習教育が上手く回り始め、子供が伸び伸びと家庭以外での社会的参加ができるようになるのである。そのように教え導くのが親の仕事である。

残念ながらその家庭教育を疎かにしてしまった故に子供の成長や発達が思わぬ方向へ進んでいることを目にすると、その先に待っている子供の苦労がどうしても見えてしまうのだ。知らぬが仏になれたらどんなにいいだろう、気持ちが楽だろうかと考えてしまい口惜しくなるのだが所詮他人事で私ができることは助けを求めにきた時だけである。

親の気付きがなければ子供が年齢を重ねるごとに何かしらの歪みが生まれてくることを目の当たりにしてきた多くの教育者が、家庭教育の重要性を唱えている事実を子育て中の親御さんが理解し、家庭教育をしっかりと実行してほしい。

私は多くの親御さんがその時々で弱音を吐きながらも子供のためにどこかで奮い立って頑張っている様子を多く目にしている。弱音を吐かない親なんてどこにもいない。弱音を吐かない親がいるとすればそれは全く子供を見ていないか、或いは見て見ぬ振りをしているかのどちらかであろう。奮い立つことができるか否かは親が自分自身のためではなく子供ために何をすべきかを考えて行動しているかに思い至った時である。何もしてこないとそのツケの代償は大きくなるが腹をしっかりと括り様々なことに向き合い、子供が社会に安心して出ていけるような元気な子供に育てることが親の役目ではないだろうか。

教室には現役の小・中・高校・大学院の教師や講師の方々がおられるが、『家庭教育って大事ですよね』とおっしゃっている。その実感は職場でも我が子の教育に於いてもその重要性を肌で感じている真実の言葉であると私は思うのだ。本当の意味で子供の親になれるかを試されているのが家庭教育であり、親子の関わり合い方だともうのである。

今日のまとめ、真の教育とは家庭教育であり親の愛情・行動・働きかけが真のものであれば、子供は自ずと真っ直ぐ伸びて成長するものである。

どうなるかと思っていたブログもまとめることができた。ほっと一安心である。表立って言えない感謝を説法者へ。


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