偉人『ジュール・マスネ』

父の日の偉人は誰にしようかとあれこれ悩んだ挙句行き着くところはやはりエスプレッシーヴォな曲を作曲した19世紀フランンスの偉大なるオペラ作曲家ジュール・マスネを選んだ。エスプレッシーヴォーとは内に秘めたものが高まる感情や思いが美しい音ともに溢れ出てくるようなを意味する音楽用語である。一年に一度の父の日に愛情豊かに心を込めて父に感謝を述べ、彼の作品に耳を傾けてみるのも良いだろう。

彼は多くのオペラ作品を手がけた人物であり、フランスオペラ界では成功した人物である。日本人には馴染みの薄いオペラ作品を上げるよりも『タイスの瞑想曲』の作曲家といえばお分かりになる方もいるかもしれない。オペラの幕と幕の間の間奏曲であるがそれがまた甘美な曲でマスネの人柄が出ている。

そんなジュール・マスネは恵まれている音楽家として捉えられているが決して順風満帆ではなかった。音楽の道を幾度も断たれそうになりながらも自分の手で握りしめて歩んできた人物であるが、彼の作品にはそのマイナス的要素は一切感じられず、泥水の中で育つ蓮の花のように清らかで、蓮の葉のように泥を被ってもそれを弾くくらいの強さがあり、早朝に咲いた花は午後になるとゆっくりと閉じていく様も彼が都会を離れ田舎の古城で自然に囲まれ休息をている様と重なって見える。彼はまさしくアジア圏に生まれたような辛抱や忍耐、精神性を持ち合わせた生き方を実践してきたような人物に見えて仕方がないのだ。

彼の音楽性も我が我がと前に出てきたワーグナーのような生き方とは真逆に位置し、静かに穏やかに創作活動を好み都会や人々の訪問を極力避け単純に音楽を生み出すことに専念したのだ。現代は前に出なければいけない、抜きん出なければいけないというような風潮があるが本当にそれでいいのか、そうではないだろうということをマスネの人生から考えてみたいものである。

1842年5月12日フランスのロワールのモントーで商家の12人兄弟の末っ子として誕生する。父アレクンは製鉄会社を経営しナポレオン軍の士官で、母はピアニストということから経済的にも音楽的にも恵まれた環境で育つ。

マスネ6歳の2月24日、母の手により初めての音楽教育を受けることになったのであるが、街中で革命が勃発し彼の初めてのピアノレッスンは中断されてしまったのである。彼の音楽活動には数度の妨害が起きるがその度に彼は強い意志のもと乗り越えきた。その妨害の手始めが初レッスンで起きたということである。

10歳でパリ音楽院に入学しピアノ科を主席で卒業するほどの実力の持ち主であったのだが、ここでもまた彼の音楽の学びに水を刺すことが起きてしまった。父の仕事が失敗してパリでの出直しをするために移り住んだのだが、また一家はパリを後にすることになったのである。マスネは音楽を続けたいと抵抗し家出をした。その行動を示すことで両親を説得しパリに残る姉の元に身を寄せ音楽を続けることになったものの、生活の糧を得るために日中は学業を優先し夜はカフェでピアノを弾く仕事や劇場、舞踏会のオーケストラ演奏にティンパニー奏者として働くことで生活をやりくりしていた。この環境から彼が学ばざる得なかったことは華やかさとは距離を置き堅実に道を進むということであった。またこの環境のお陰で当時のオペラの人気作曲家シャルル・グノーやエルネスト・レイエなどのオペラ作品に触れる機会を得て後のオペラ曲を多く生み出すことができたのである。彼の人生の中で経済的には最も厳しい時代であったとは思うのだが自分のやるべきことだと確信していたのだろう。

1862年には音楽家の登竜門であるローマ大賞を手にし作曲家としての成功を約束されたのであるが、1870年に勃発した普仏戦争に従軍し音楽活動は中断を余儀無くされた。芸術家は従軍をすると作風が変わることがあり、中には心に闇を抱える者もいるのだが彼の作品は健在で彼の中に息づいていた。3度目の音楽の中断ではあったがここも乗り切ったことになる。

その後作曲活動を再開し35歳で『ラオールの王』がオペラ座で上演され大成功を得た。しかし評論家や同業者たちは大衆ウケするマスネの作風を保守的と看做し酷評をしたのである。マスネを高く評価していたクロード・ドビュッシーが彼らに異論を唱え「彼らは聴衆に好まれるという能力を許せなかったのだ。それこそがまさしく彼の才能である。」と援護したのである。その後36歳でパリ音楽院の教授として迎え入れられたのであるから彼を批判していた者たちに彼の才能は本物であると証明した形になったのだ。


彼の人生には音楽活動を中断させる幾つもの出来事が起きたわけであるが、その度に自分の力で乗り越え音楽に真摯に向き合ったことで援護者も現れた。しかしそこにはやはりマスネの人柄と人間性も深く関係していると考える。

彼について記した書物に目を通すと殆どがマスネの人となりを控えめで穏やかな人物だった記している。30年間地道にパリの自宅や郊外の別荘を行き来しながら作曲をしていた。彼が売れっ子になってからは作品に出演したいオペラ歌手がオーディションを求めて屋敷の前に長蛇の列を作ることもあったが彼はその持ち上げられることを良しとせず、またオペラ座の支配人からの次作への要望から逃れるようにパリから時間のかかる場所の古城を求め静かに作曲することを選んだ。好きな仕事を誰にも邪魔されることなく行うその古城は美しい庭園を保つために植栽に心を配り、秋になるとリンゴや洋梨がタワワに実り「庭は緑と優しい赤に色づいている。」と田舎の暮らしに満足しながらただただ作曲をすることに喜びを見出す人生だった。マスネの作品が甘く美しい旋律と魅力的な響き、フランス風の軽妙さとエスプリ漂うのは彼の人となりと静かにゆったりとした時間の中で過ごす生活スタイルからくるものである。

砂糖菓子のように甘く抒情詩的な美しい旋律は今も尚世界的に愛され演奏され鑑賞されている。そして普遍的な美しさを身に纏った色褪せないマスネの音楽は彼自身が自然の中に身を置き静けさのかで湧き上がる音をスコアの上に綴っていったのだろう。

では幾度も中断を余儀なくされそうになりながらもそうならなかったのは何故か。

音楽が好きであったことは間違いはないであろうが、それよりも彼の穏やかな人柄がそうさせたに違いないと考えている。厳しい状況下に置かれると人間誰しもメンタル的に壊れかかるものであるが、清濁合わせのみそれを踏まえて前向きになる人の多くは現状を受け入れること、そしてそこからどうすべきかを考える人であり、決して逃げの選択をする人ではない。多くの芸術家の中で逃げに走っている人物の人生を紐解いていくと似たようなことが形を変えて起きていたりする。そう考えると逃げるという選択肢を子供に安易に授けるのではなく、小休止をして受け入れて新たに行動することを教えるべきではないだろうか。穏やかな人というのは深いところで物事を考えている人か、楽天家が多いがその両者に共通することは前向きということである。

幼児から小学低学年で自分自身の力を子供自身が感じ取る瞬間が発達として現れる時期がどの子にも見受けることができる。『僕は私はこれが苦手だけれどもこれだけは自信がある。』というものを持たせておくべきなのだ。それさえあれば心の発達は安定し苦手な者も克服でき、困難が起きても乗り越えるだけの心の拠り所になる可能性があるのだ。それを持っていれば悲観することもなく前向きに物事と向き合える。私たち親は子供達に「君はこれが得意だね。この行動は素敵だね。自信を持ってもやり遂げていいんだよ。」というものを与えるべきではないだろうか。

ジュール・マスネは得意なものが作曲であり人生を賭けた職業にした。同じようにオペラ界でのしあがり力を見せつけたワーグナーのような派手さはない。そしてワーグナーのような名誉や金銭に目を奪われなくても純粋に好きなものを追求しワーグナー以上の作品が未だ発見され続けている。地道な道を選択し進んでもマスネは今もなおオペラ界で生き続けている。それは彼の人柄や人生がその作品に息づいているからであろう。心穏やかに人生を送るコツを身につけることが重要だと彼の人生から学ぶことができる。『あなたはこれが好きなんだね。これが得意なんだね。』を子供に気づかせることが親の役目ではないだろうか。

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