偉人『円谷英二』

先日の2024年7月3日手仕事『七夕ゼリー』の記事を書いている時にふと「寒天ゼリーで海を表現した人が居たな」と思い出した。誰だったか、どんな記事だったのか?・・・「そうだそうだ、円谷英二の特撮記事だった。」と記憶の引き出しから情報を引き出すのに丸一日かかった。記憶のアウトプットの速度の低下に驚愕しているが、まだまだ思い出せていることに安堵している。円谷英二といえばゴジラやウルトラマンを世に送り出した名監督である。

ここ数年古いウルトラマンのことをやたらめったら詳しい子供が出てきた。よくよく話を聞くとお父様の子供時代の映像作品を父息子で楽しんでいるそうである。私にも覚えがあり弟が大熱唱している横で耳コピし今でも3曲ものウルトラマンに関する主題歌が歌えてしまう。

・「胸につけてるマークは流星 自慢のジェットで敵を撃つ 光の国から僕らのために 来たぞ我らのウルトラマン」

・「ウルトラの父がいる ウルトラの母がいる そしてタロウがここにいる・・・」

・「セブン セブン セブン・・・はるかな星が故郷だ ウルトラセブン ファイターセブン・・・」

ウルトラマンにどっぷりと浸かっている弟の横に居ただけで半世紀近くたっても鮮明に歌えるのであるからウルトラマンがいかに子供達に浸透していたかが分かる。今回はウルトラマンを世に送り出した特撮監督円谷英二を取り上げる。

円谷英二を取り上げるにあたり彼の生年月日を調べるとなんと七夕生まれである。正しく今週取り上げるに相応しい人物であると思っているとどうもそれは違ったようで10日生まれだったそうである。1901年7月10日福島県須賀川市の大屋という麹業を営む江戸時代から続く商家の長男として誕生。しかし母セイは弟を出産後病死したため婿養子の父白石勇は離縁され、英二は祖母ナツによって育てられる。また5歳年上の叔父一郎は兄のように英二を可愛がり愛情深く育てた。英二は幼い頃より手先が器用で水彩画も大人が驚くほどの腕前であったという。

英二9歳の頃日本初の公式飛行の成功に感銘を受け、将来は飛行家になろうとかなり強い決心を持っていたという。しかし当時は墜落事故による死亡事故も多くそのことで家族は猛反対したのであるが英二の意志が固く、家族はそれならばと飛行家になるには飛行機を作ることからしなければと説得をし月島の機械製作所に就職した。しかしやはり夢を諦めきれず1ヶ月で退社し日本飛行学校に入学した。その高額な入学費用を工面したのが叔父の一郎だった。しかし学校に2機あった飛行機の1機が墜落し唯一の教官も死亡、さらに残り1機も台風で格納庫ごと流され学校が存続できず閉校となる。まさに英二の夢は泡と消えたのである。その後電気学校の夜間部に入学し学費の足しに叔父一郎の口添えで玩具メーカーで働いた。しかし人生は面白いもので玩具メーカーの職人たちと花見に繰り出し、そこで花見に来ていた映画会社の社員たちと職人が喧嘩になった。そこに仲裁に入った英二を映画会社のカメラマンが気に入り映画会社へスカウトしたのである。これが監督円谷英二の始まりである。

さて映画の世界に入ってからの英二の活躍は浮き沈みが激しく、妻は質屋に通い生活費を算段する日々であったというのだ。しかし彼の生活が一変したのがゴジラのヒットである。映画会社まで徒歩通勤していた生活から黒塗りの車が自宅に迎えにくる激変生活となり、その後ウルトラマン制作に移行し特撮の神と呼ばれるようになった時代を迎えていくのである。

さぁ、ここから円谷英二という人物の凄さを語っていこう。

先出で彼が飛行家を志ていたことを記していたが、映画会社でカメラマンの助手をしていたある日、飛行による空中撮影が予定され映画会社は空中撮影をするようカメラマン達に打診するが誰一人受けてくれず、その状況を知りただ一人手を挙げたのが英二である。その仕事を一人で見事に成し遂げカメラマンとして認められた。後付けだが飛行家になりたいと思っていた夢は実際夢破れたのではなく、特撮監督になるために必要なことで空撮を行うための足がかり的なものではなかっただろうか。彼の人生の着地点である特撮の名監督としての通過点が飛行であったと考えてもいいかもしれぬ。偉人の人生はこうして導かれていくのだ。

さて英二の人生をかなり端折るが彼がテレビ界に活路を見出したのは晩年の62歳である。当時彼の周りで働いていたスタッフの年齢は若く平均年齢24歳であったそうだ。その中にいたのが南風原町津嘉山出身の金城哲夫である。円谷とともにウルトラマンの脚本家として活躍していたことを知る人も少なくなり、ご実家の松風苑の前を通るたびにウルトラマンの歌を口ずさんでしまう。また我が父との関わりも少なからずあり共に訪れたときには大きく成長した木々の庭を散策し小さなアトリエを見せてもらった。沖縄の子供達には郷土の先輩が関わっていたことも念頭に入れウルトラマンを堪能してほしいし、夢を追いかけ成長して欲しいと思う。

話がどんどんずれてしまうので軌道修正するが、英二が若いエネルギー溢れるスタッフを育成したからこそ、あのウルトラマンシリーズが誕生したと言ってもいいだろう。そして英二は常にウルトラマンを見る子供たちの夢を壊さぬようにとスタッフたちに注意を払うよう言い続けていたそうである。例えばウルトラマンや怪獣の中に入っている人々は絶対にカメラの前で着替えてはならないと。その理由を尋ねると「子供達はウルトラマンのその世界に浸りきって夢を見ているのであるから、その夢を壊してしまうような裏を見せるものではない。」「お茶の間で多くの子どもが見る夢を与えよう」と語り子供の夢のために活動することの重要性を唱えていたという。

そしてそのためにはその作品を作る自分たちが夢中になり冒険心や好奇心を持ってものづくりをしなければと語り、その撮影は熱気に溢れていたという。その様子は側から見ると撮影ごっこのようであり、秘密基地を右往左往するように大人たちが面白がって作っていたという。この大人が面白がって制作することが子どもたちが夢中になった一つの理由ではないだろうか。

さらに私が特出して子供の心を掴んで離さなかったことの二つ目の理由が、ウルトラマンの架空の世界に潜み続けるドキュメンタリーだと考えている。

日常生活の中に存在しない正義の味方と怪獣の戦いという非現実の世界ではあるが、その怪獣が誕生している根源は高度経済成長期に生まれた公害や自然破壊、産業廃棄物の問題、環境問題などの歪みである。このドキュメンタリーを当時の子供達がどこまで理解し考える機会を持てていたかは定かではないが、事実である問題や歪みから誕生する怪獣というものリアリティーさを子供は感性で感じ取っていたと考える。どんなに幼い子供でも楽しむことに関しては真実を見抜く目を持っているからである。

大人になりその深い問題提起があることを知ると大人は大人でウルトラマンの奥深さを知ることができ、当時の大人たちが物事を深く考えメッセージを発信していたのだと真摯に受けとることができる。

男児が正義の味方に憧れる時期にこのような社会的メッセージを含んだ見方を学ぶ機会がある作品に出会うことにも意味があり、そこまで踏み込んだ話が親子で行い少しでも理解しようとする姿勢に至れば勝った負けた、正義だ悪だと片付けておしまいの思考力よりもさらに深く物事を捉えるきっかけになるであろう。これからを担う子供たちにもウルトラマンの世界観を純粋に楽しみ、深い視点で社会問題に切り込んだり、自分の生活の中に存在する現実世界に目を向けたりすることができれば人生の生き方が違ってくるであろう。

円谷英二が大切にしてきた『子供の夢を大切にすること』『そしてその夢を作るために大人が楽しむこと』を私たち親も肝に銘じなければならないだろう。子供にたくさんの本を読んでほしいと思うなら親は本を楽しく読んでいる姿を見せればいい、たくさんの経験をしてほしいと思うのであれば親がチャレンジをする姿を見せればいい、しっかり学習してほしいのであれば親は携帯ばかりを触るのではなく学んでいる姿を晒せばいい。さすれば子供にとやかく言わず指1本触れずとも自然と道は開かれる。その極意を実践する勇気を出してくれたらどんな選択肢よりもベストだと考えている。大人が楽しめば真っさらで清らかな子供の感性は今も昔もビンビンに反応しているのであるからある意味大きな成功例を私たち親は目の当たりにしているのである。その事実に気づけば成功の極意がどこにあるのかは一目瞭然である。

最後に円谷英二の子供は父のことをこう語っている言葉を紹介しよう。

遊園地やファミレスなどに連れて行ってもらったことは一切ない。しかし僕が父の仕事場である現場に行くことについては一切嫌な顔をしない。そして撮影が終わると、「どうだ、面白かったか」とお尻をポンポンと叩きながら近寄ってきた。それが円谷英二という父である。


そして父円谷英二は

「子供の運動会にさえも一度も行っていない。ただそれが今となっては・・・」

後悔していたようである。


現代の父親像とは大きくかけ離れているが当時はそれが普通の時代である。しかし父親の本音は子供と関わり合いたかったということが英二の言葉から読み取ることができる。今の時代は父親も子育てに自由に参加できるようになった。そして今年当教室のお父様の中に1年間の育児休暇を取られた方がおられる。職種を考えても人材確保に厳しい現実があるのにもかかわらず、またご自身のキャリアも考えるとかなりの決断であっただろう。しかし一人の我が子と向き合うこの時間こそが今後のキャリアに必ずや活かされることだと断言しておこう。そしてその決断は英断だったと振り返ることができると確信している。父の姿を見せることの意味は海の深さよりも深いのである。


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