偉人『ポール・ゴーギャン』

何を始めるにしても遅いことはない、気づいた時が最良のチャンスという言葉が相応しいポールゴーギャン。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホとセットで語られることの多いゴーギャンであるが単独で彼の絵画を掘り下げる記事は少ない。というのも彼は多くの画家が早期に絵画教育を受けたのに対し25歳で絵画を習い始めた異色の趣味の域からの出発画家であるからだ。とはいえは彼の作品を見れば入り口が印象派でありながらもその後は印象派から一線を画し独自の路線を歩んでいることは明らかである。

この遅咲きの画家がなぜ独自路線を生み出すことが出来たのかは、幼い頃に住んでいたペルーでの風景や光景の色鮮やかさが関係し、画家に必要な色彩感覚とその風土を肌で捉え表現するエネルギーの強さが絵筆から滲み出ている。その逞しく太いエネルギーの出し方は沖縄の子供達が抱くパッションと共通していると感じている。教育の質を変えることができればどこの都道府県にも勝る吸収力があると感じている。その一部が芸能活動や芸術的なもので表現されているとは思うのであるが、子供達が自分自身の強みを知り、自分自身でどう表現しプロデュースするのかを学ばせる機会を大人が与えるべきだと考えている。どんなに自分自身たちの意見を声高に訴えても悉くかき消されてきた大人の憂いを払拭し、これからの時代を担う沖縄の子供達が自分自身の強みを表現する意義を幼い頃から育むことを今一度考えたいと思う。

1848年6月7日密室政治と利権政治が渦巻き多くの国民が貧困に取り残される二月革命の年のフランスパリで誕生した。父クローヴィスは革新派の政治ジャーナリスト、母はアリーヌはペルー貴族の血を引いていたが、政治弾圧を受けていた父は職を失いその弾圧が激しくなったことから一家はペルーのリマに移住する。ゴーギャン1歳の頃である。しかしその船上で父クローヴィスが急逝し残された家族は叔父を頼り言語取得に重要な時期をリマで過ごした。ペルーの情勢悪化により7歳で父の故郷であるオルレアンに祖父を頼り戻るもスペイン語しか話せなかった彼は母国語であるフランス語の習得に苦労を強いられた。ゴーギャンの人となりを調べていくと喧嘩っ早い一面や辛辣な言動で揉め事も多かったとされ晩年には裁判まで起こされている。自分の道を進むことの信念を追求したがために家族からも見放され、コミュニケーション能力の低さから生き辛さを自分自身で生み出したとも言える。

話は前後するが17歳で南米への思いを募らせ水夫になり南米リオ・デ・ジャネイロに初航海する。おそらく幼少期に過ごしたペルーの風景や風土などあらゆるものが恋しくなったのであろう。20歳で海軍に入隊し東地中海や黒海、エーゲ海を巡航する任務についているが23歳で海軍を辞め、パリの株式仲介業の仕事に就いたこの頃から叔母の勧めで絵を習い始めた。株式の仲介業で成功し25歳でデンマーク人の妻メットと結婚し30代半ばまでは裕福な生活と日曜がかとされる趣味の絵画を嗜んだ。

専門的な絵画教育は受けいないにも関わらず彼の作品はサロンに入選し、個展を開くなど趣味であった絵画活動がカミーユ・ピサロやポール・セザンヌらとの交流で本格化したのである。株式仲買の仕事を辞め画家として活動することを決めたゴーギャンであったが、株式の暴落の余波を受けた絵画会も縮小を余儀なくされ生活は貧困の極みであった。妻は5人の子供と共に故郷コペンハーゲンでフランス語を教え生活を支える。ゴーギャンも家族の後を追いコペンハーゲンに移り住むも言葉の壁が原因で仕事にも行き詰まり、妻に見放され家を出るよう求められた。うだつの上がらない夫の烙印を押されてしまったのである。

単身パリに戻るも生活は困窮を極め裕福な時期に収集した美術品を売り払い生活の足しにしていた。何を始めるにしても遅いということはない・・・それはそうであるが妻からすると子供5人もいて日曜画家として自己満足の道をいくとは何事か、何を血迷っている旦那様であろうかと妻メットは嘆いたであろう。しかしゴーギャンは描くことへのパッションは人一倍持ち合わせており、彼の描きたいという衝動は家族を養和わなければならないという義務感を遥かに超越していたのであろう。この義務の放棄は幼くして父を失ってしまったということが大きく影響していると考えられる。父性性は社会性を学ぶものであり父の背を見て家族を養うことを学べなかったゴーギャンの幼少期が、彼を家族のために働くという概念を欠落させてしまったのではないだろうか。

ここからは彼の作品に目を向けてみよう。ピサロやセザンヌ、ゴッホなどの印象派の画家と交流している頃の作品は以下のように印象派の理論を踏襲して入るが、幼い頃にペルーで見た赤と緑の色彩を配置しゴーギャンの特徴である大胆で平面的ではあるが安定感のある構図を用いている。がしかしゴーギャンの代名詞と言われる太い線での輪郭描写は生まれてはいない。

印象派の影響受けること暫しという時期を通過すると次のステージである大自然の息吹を感じさせる大胆な色彩表現と太い分割線の獲得に至る。その色と線の強さが大胆でダイナミックで独特のたくましさを感じさせるのだろう。彼が幼少期を過ごしたペルーとどこか似たタヒチで自然が織りなす美しく奇抜で鮮やかな色の世界を幼き頃の懐かしさと重ね合わせ描いたのではないだろうか。ゴーギャンの見た世界は彼にしか表現できないものである。その世界を100年後の私達が目にすることが出来ていることの意味を教育に活かすことができればなんて素敵なことであろう。

地球には様々な風景が広がりそれぞれにその特性が引き立つ風景や光景が広がり、繊細な描写を目にする場所もあれば大胆で力強く荒々しい場所や人の手が一切加わっていない世界がある。様々な自然から受けるエネルギーを自分自身の中に取り込んで感じたままを表現することは、子供自身が自分の強みを活かして得意な方法で表現することが重要なことではないだろうか。

沖縄には琉球独特の自然や生物、文化や伝統が存在している。時にその固有のものが封印された時代もあったが他の土地ではない魅力が存在し、不遇の時代を生きている強さもある。どう足掻いても解決しないこともものの見方捉え方で千載一遇のチャンスになり得る可能性を秘めていると思うのだ。その魅力を目にし感じ直接触れ味わい表現する機会を私たち大人が子供に提供すべきなのではないだろうか。それが幼少期であればあるほど感受性に刺激を与えることができる。

私は沖縄の子供達にはいろいろなものを五感を通して見聞きし味わい感じ、ゴーギャンのようなものの捉え方で大胆にそして自身の特徴を活かす方法で人生を送って欲しいと考える。また大人もまたゴーギャンのように何をするにも遅いということはない、気づいた時が最良のチャンスとして子供に手本を見せることができる大人であって欲しいとも考える。またご自身の職業に対して誇りを持ち素晴らしい仕事をしているんだと言える大人のの後ろ姿を子供達に見せるべきではないだろうか。現状の厳しさから大人が諦めてしまう姿勢を見せてると子供も諦めることを覚えてしまう。子供が自信を持って生きるためには大人の私たちがゴーギャンのように熱い魂を持って自分のしたいことをし続けるという姿勢を示すべきだと考える。勿論周りの人々への配慮を十分に行うことを心に刻んでという条件付きではあるが。

何を始めるにしても遅いことはない。気づいた時が最良のチャンス。このゴーギャンの姿勢を賢く取り入れることがポール・ゴーギャンから学ぶことではないだろうか。

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