偉人『彫金師 浜野矩随』
浜野矩随(はまの のりゆき)この名前を知っている方は落語好きか彫金に詳しい方であろう。私が初めてこの名前を知ったのはラジオから流れてくる3代目古今亭志ん朝氏の落語であった。ある日友人宅にお呼ばれしテレビがないことに気づく。音楽家だからなのか?と想像を回らせていた矢先「子供の聞く力を育てるために専らラジオを聴かせているの。」と話してくれた。「これは良い。ぜひ帰宅したら即実行‼︎」と決断しラジオの周波数をあれこれ試していると落語が聞こえてきた。この時の話が今回の彫金師の浜野矩随である。残念ながら江戸時代の人物で彼の容姿を知る術はなく彼が彫ったと言われる仏像を掲載した。
今回は知名度こそ低いかもしれないが浜野矩随の母のように子供が窮地に立たされた時、子供を奮い立たせるために親として何ができるかを考えてみる。
現代の日本の先端技術を担う大田区大森は今も町工場が集積している職人の街であるが、江戸時代後期に3代続く彫金師の浜野矩随らが活躍したのもこの大森である。父の初代矩随は腕の良い刀などに彫りを入れる腰元彫りとして活躍するも大の酒好きがたたり死去する。一人息子の2代目矩随は大変不器用でプロの彫り師を名乗るには到底及ばず駄作ばかり製作していた。次々と客が離れ情けだけで購入していた最後の客を怒らせてしまう。購入して貰おうと彫った馬を持参したのであるが、その馬の足が3本しかなくおまけにその1本が余りにも太いことに客は激怒し、「手切の5両を母に渡し、お前は吾妻橋から身を投げるか、松の枝に首を括って死んでしまえ」と厳しい言葉を投げ三行半を下し追い返した。最後の客は矩随の母親思いに心打たれ渋々購入していたのである。しかしこの時に持ち込んだ馬の太い足は実は死んだ父の足が腫れ上がっていたことに思いを馳せて彫っていた結果でもあった。親想いの息子であったことは明らかである。しかし親に対する思いがあったところで生活の糧が得られるものでもない。
矩随は母に最後の客に死んでしまえと言われたことを伝えると母は「死んでおしまいなさい。」そして「先立つ前に、形見に観音様を一体彫っておくれ。」と言葉を重ねた。母に見放された矩随は人生最後の作品になるであろう観音様を掘ることにしたのである。母は息子が観音様を掘り続ける間朝から晩までお経を唱え続けた。完成した観音様を持ち最後の客に50両で売るようにと母に言われその客の元に向かったのである。その作品を見た客は初代の作品が残っていたのかと勘違いをしたものの、息子が彫ったものだと知ると暴言を吐いた事を詫び高値で購入した。ところが一部始終を聞いた客は矩随にすぐに家に帰るよう命じた。母が息子を送り出すときに今生の別れを意味する水杯を交わしていたからだ。慌てて家に帰った矩随が目にしたものは既にこと切れた母の姿であった。その母の命をかけた叱咤激励を胸に抱き、息子の矩随は生涯精進し続け父の名に勝る名工になったという。
結論から言うと息子の成功を見届けなければならなかったのではないかと思うところではある。がしかし息子の開眼を願いお経を唱える母の気持ちは今の私なら痛いほどわかる。子供の望んだ道が険しければ険しいほど毎朝日を浴びながらと言うより今日の無事を祈っている。とはいえ危機迫るものではなくあっさりとではあるが・・・そして眠りにつく前には無事で過ごしていたであろうことに感謝して床に就くのである。時代が変われども母親の子供を思う気持ちは変わらないものである。矩随の母は自分の命を掛け息子の生き方に一石を投じ父に勝るとも劣らない名工の道を指し示し息子の才能を信じていたのではないか。しかし母親に命をかけさせてしまった息子にしてみれば、それはそれは重い精神的苦痛を背負わされたようなものであり、別の方法はなかったであろうかとさえ思う。時代的な背景を考えると致し方なかったのかもしれない。しかし現代に於いてはその母の選択が残される子に精神的ダメージを与えてしまうことが容易に想像できあってはならないことだ。
では子供が人生に於いて二度とないような究極の選択をしなければならない場合や厳しい状況に置かれた時にどのような事を親はしなければならないのかを考えてみる。
私の人生には両親が見せて学ばせてくれたことが心底刻まれている。父は映画になりそうなドラマティックで厳しい人生を歩み人のために人生を捧げてきた人でその生き様から今だに多くのことを学び日々手本としている。一方母からは心の修養を学んでいる。人生にはここぞという時があり、手を尽くしてもこれ以上進めない行き詰まりの時に助言を求めると『得るは捨つるにあり』と教えられた。窮地に陥ったときにこそ度胸の見せどころであるという教えである。心の自由を得るためには今抱えているものを思い切って手放せという教えは、匙を投げるという諦めに似た感情にどこか似ていて当初は納得できなかったのであるが、多くのご父兄と接していると親子の関係性にもこの言葉が当てはまることに気付かされた。特に先生という名のつくご職業に就かれている親御さんは、子供に自分自身の職業的立場を重ねてしっかりと子供を育てよう教育しよう、こうでなけれなならない。というような強制に強制を重ねたゆとりのない縛りで子育てをする場合がある。がんじがらめの強制は子供自身を息苦しい中に閉じ込めるだけではなく、人の目を気にする子に育てしまうことや、こぞという選択肢を迫られる時に自力で考え行動することが難しくなる子育てになっていたりする。自分自身の職業と子供の成長を切り離し俯瞰することでよりよ胃親子それぞれの道が見つけやすくなるのであるが、やはり自分自身も含めて先生という名のつく職業の頑なさが付きまとうのである。
しかし子育て終えた今、親子であってもお互いを尊重し合える関係性に気づくことができれば必ず一人に一度は訪れる人生の度胸の見せどころでは心の自由さを持ち人生を自らが勝ち取ることができるようになる子供に成長するのだと確信している。そのように導くのが本当の意味での子育てではないだろうか。浜野矩随の母のように子供を奮い立たせるためであっても子供の心に生涯抱え込まなくてはならないような傷や影を落とすべきではない。親というものはいつまで経っても子供が帰ってこれる場所でなくてはならず、死してもなお父や母ならこうするだろうというような思いを子供が感じ取ることができるような教えを残すことが使命だと考える。
今回は親のあり方を皆さんには落語の浜野矩随の小噺を3代目古今亭志ん朝氏の語りで楽しみ感じ取っていただきたい。この話にはいくつかのバージョンがあり母が一命を取り戻す内容のものもある。落語を通してこの話を考えると物事を極める人は人の真似をせず、自分自身の表現を追求せよということを捉えているのかもしれないが、私の立場からすると子供の学びではなく親が深く子育てというものを捉えるべきではないだろうかと教えてくれる小噺である。
最後に古き時代の落語は本当に面白いDVDを集めてみようかとさえ思うが、暫くは家事をしながらYouTubeに頼ってみようと思うのである。
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