偉人『瀧廉太郎 第1弾』

今日は十五夜あいにくの天気である。満月は顔を覗かせてくれるだろうか・・・

さて日本には四季がありその季節感を日本で初めて歌曲にしたのが瀧廉太郎その人である。彼の組曲『四季』の中でも 春のうらららの隅田川・・・で始まる『花』は誰しもが耳にし認知度の高い曲であるが、実は夏を表す『納涼』、秋の『月』、冬の『雪』の4部作であることを知らない人は多い。というわけで彼の作品の知名度を微力ながら上げることができたらと考えたのは建前で、本音は彼のあの重厚な『月』を味わってもらいたい、そして彼の12歳の頃の出来事を考えてほしく今回取り上げることとした。

歌曲の一部『花』ではおぼろ月という言葉が、『納涼』では月に歌ひとあり、『月』では月かげ、『雪』では残念ながら月という表現はないものの漠然とした神々しいものを讃えているように個人的には感じる。それが月なのか、太陽、海、山なのか、はたまた自然崇拝を指すものかある特定の神仏なのかは歌詞の解釈を歌い手や読み手に託しているようでもある。

実はこの4部作の中で『月』だけは瀧廉太郎自身が作詞作曲の両方を手掛けているため秋の物悲しさをことさら強調した凝った作品になっているため、春と夏の作品とは異なる重厚さも感じることができる。是非ともこの4部作の中の『月』を芸術の秋に耳されてはどうであろうか。また30年ほど前に風間トオル氏扮する瀧廉太郎の映画『わが愛の譜 瀧廉太郎物語』観るだけでも瀧廉太郎の短い人生を知ることは可能である。

瀧廉太郎といえば天才的才能を持ちながら志半ばの23歳で早逝した天才作曲家であり、日本に初めて洋楽を取り入れて作曲をした作曲家である。

彼の作曲した『荒城の月』『箱根八里』『花』は大変趣のある作品ばかりであるが、『鳩ぽっぽ』『ゆきやこんこん』『お正月』なども実は瀧廉太郎の作品である。がしかし『鳩ぽっぽ』や『雪やこんこん』は現在歌われている曲は彼の原曲ではない。なぜそのようになってしまったのかは諸説あり政府の陰謀論を唱える者すらいる。今回は不明瞭な憶測を論ずるのではなく彼の幼少期にいじめという困窮に陥った際に彼がどのように切り抜けたのかを考える。

瀧廉太郎は1879年8月24日父吉弘は大分県竹田市の日出藩の家老という家柄に生まれた。長い鎖国時代が終わり明治新政府の重要人物である大久保利通や伊藤博文の側近である上級官吏として働く父吉弘と母雅子の長男として誕生。後に父は地方官吏として神奈川・富山・大分などを転々と移り住んだ。

東京港区西新橋生まれの廉太郎は地方の子供達とはどこか雰囲気が違い、目が悪く掛けていた丸眼鏡も田舎の子供達のからかいの絶好の的になってしまったのである。色白で背が高く都会的な廉太郎の容姿は、高級品の眼鏡の物珍しさも相まって好奇の目にさらされた。そして12歳という年齢は男子特有の力比べを一方的にけしかけられる様相を呈したのである。

「眼鏡なんか掛けやがって」といじめられた廉太郎はある手を使いそのイジメを自ら止めることに成功し、クラスの人気者にまで上り詰めている。ではどのような方法を取ったのであろうか。

『芸は身を助く』この言葉を聞いたことがあるだろう。一芸に優れているという意味であり、より深く解釈するとすれば、どのような分野であれ他人に秀でる能力があれば思わぬところで役に立つものであり、困窮した時にこそそれが救いとなるというものである。

廉太郎は当時流行っていたコマ回しの腕を磨き一躍クラスの人気者になったのである。これは現代の子供の世界でも通ずることで、何か一つ平均値よりも上手なものや得意なものを持つと必ずその魅力に惹かれるように人が集まってくる。思い起こせば小学生の頃絵の上手な友達の周りにはいつも複数人友人が取り囲みあれを描いてこれを描いてとせがんでいたような記憶がある。人間の心理として素敵なものや美しいもの愉快なことに心惹かれるが、それは子供の世界でも同じである。いじめに関していろいろな対策があるがいじめになる前に友好関係を築くという点に於いては有効な手段ではないだろうか。得意なものを持つことは子供が自信をつけることになり、ひいては人を虜にするものでありそれが窮地に陥らないためのいじめの防止対策にもなると考える。また人とコミュニケーションが取りづらい子供の場合には相手がその子供の方へ歩み寄ってくる機会を作ることにもなる。人と人との関係性を友好的にするには、人を妬んだり謗ったり僻んだりするような感情を持たずにすむように、自信をつけ自己肯定感を上げることや人の痛みを理解するなど心の修養もまた育てなくてはならない。親としてのやるべきことは多いが、イジメを回避する方法を学ばせる前に人との調和をどのように築いていくのかを教えておくことが重要ではないだろうか。何事にもぶれない力強さと優しさというものを多くの子供達が獲得できれば、どんなに素敵な学生生活を送ることができるだろうか。意気揚々と育つ子供たちの逞しさの復活を心から願うばかりである。

では廉太郎はどのようにしてそのような策を講じることができたのであろうか。これはもう私の勝手な想像になるのであるが、父吉弘と母正子の手本であったと考えている。地方官吏の役で東京という都会から地方に住むことは、役人とはいえ難しい一面もあったであろう。その生活の中で両親は仕事と子育てを行わなければならず、どのようにして立ち振る舞いその中へ入っていくのかを親の姿勢から学び、そのノウハウを子供ながらにこれまでの転居で獲得し学んでいたことから思春期を迎える12歳での転居先の竹田で行動できたのであろう。親の背を見て育ち自らの機転をきかしたということだと考えている。


今回は廉太郎の幼少期にスポットを当てて記事を記したが、次週彼の音楽との出会いや才能をどのように磨いていったのか記事にしたいと考えている。次回もお読み下さると嬉しい限りである。

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