偉人『樋口一葉』
樋口一葉といえば明治時代の小説家でありわずか24歳で夭折した女流天才作家である。5千円札の人物として認識している方もいるかもしれないが、現在は電子決済の普及により彼女の顔すら目にしていない人も多いだろう。だからこそ声を大にして樋口一葉の作品を一度で良いから読むべき作品である。
そんな彼女は24年という短い人生の中で作品を世に繰り出し執筆活動に尽力できたのはわずかな歳月であり、最高作品を生み出したのはわずか14ヶ月、そしてその時期を奇跡の14ヶ月と言うのである。生涯に残した作品は22篇、その中でも群を抜いているのが『たけくらべ』である。平安時代の雅さを自作に盛り込んだ一葉の人生から新しき AI 時代に向けての子育てに何を得ることができるのかを考えるきっかけにしたい。
1872年5月2日東京都内幸町で下級役人の次女として誕生した一葉は、言葉の覚えが早く4歳10ヶ月で小学校に入学するほどの利発さを見せ父に新聞を読んであげることを得意としていた。幼い頃から江戸時代の絵本や娯楽本の草双紙を読み漁り、曲亭馬琴の南総里見八犬伝をわずか3日で読破するなどの脅威的読書量であった。井原西鶴や近松門左衛門を好んで読んだとされ源氏物語などを講義するなどの一面もまった。一葉が幼くして読書に没頭するのは父樋口則義の影響であり、父が読書を好み幼い一葉にその姿を見せていたのである。
ところが利発な娘であったにも拘らず女に学問はいらないと母は高等科第4級を首席で卒業した娘をさらに上級に進ませず辞めさせ学びの芽を積んでしまったのである。それを見兼ねた父は一葉に和歌を学ぶよう旧幕臣の和田重雄の和歌を習わせた。更に伝をつたい萩の舎に入塾させ他のである。門下生は千人を超え当時の公家や旧大名、明治政府の婦人や令嬢が通う場所で身分の違う環境の中で肩身の狭い思いを抱えながら和歌を学び実力をつけていった。
ここで考えるべきことは一葉に学びたいという向学心がありながら母親が学問は不必要だと学校を退学させてしまったことである。当時の時代から考えると女性が学問を続けることは難しいと言える。しかしそれが父親の判断ではなく母親の判断であるということが気になる点である。母親としての固定概念がそうさせたのか、それとも本当に学問が不要だと判断したのか、将又女性が学問をする佐野先の展望ができなかったのだろうか。おそらく時代に流されるべくして人生良しと考えた母親なのかもしれない。がしかし自分自身は親の反対を押し切り駆け落ちをした人物である。もし自身の行動を振り返る母親であれば子供の学びたいという欲求に自身の行動を重ね合わせて判断することができたのではないだろうか。
母は一葉の向学心や才能を認めていなかった一方父はそうではなかった。父則義自身が農家の出でありながら勉学を好み下級武士の職に就くほどの努力を怠らなかった人物であったことが彼女の良き理解者となったと言える。ところが大政奉還が起こり農民からやっと下級武士となった身分を保証するものは無くなったものの今でいう投資家として生業を成立させ裕福な暮らしをすることができた。しかしそれも長くは続かず兄そして父も相次いで肺結核で死亡し一葉は17歳にして残された母と妹を養う一家の大黒柱となったのである。母と妹女3人での生活は大変苦しく母と妹が裁縫をして小銭を稼ぎ、一葉も裁縫を行おうとしたが暗い土蔵での読書がたたり極度の近眼で裁縫ができる状況になく、ならば作家として文筆活動で生活費を得ようとするも思いの外低賃金で生活は常に厳しく、母は一葉に小説で将来売れるにしても今必要な生活費はどうするのかとプレッシャーをかけてくる有り様である。母の「お前の志が弱く、確固たるものがないためにこのような状況が生まれているのではないか」というような母親の小言は日常的で生活費の工面、借金といった現実的なものに常に悩まされていた。
ここで考えてみよう。現代は生活費に困ることを親が子供に生活費をどうにかせよと子供に頼る考え方は少ないだろう。しかし当時は男尊女卑で生活したきた母親にとっては自分自身が大黒柱になるという考えは微塵もなかったのだ。自立できない母親というものはどうしても弱い立場に置かれ母はそれに甘んじる他なかったのであろうが、その時世を多めに見ても金の工面を催促するのだろうかと自分自身に置き換えて考えたり、母の目から見て妹は仕立て仕事に精を出し金銭に直結する反面一葉の行動が歯痒かったのであろうか、またお互いを理解するだけのコミュニケーションが図られていなかったのかとも推測できる。しかしその時代でも一家を担っていた母親がいた事実もあり一葉の母の閉鎖的な物事の捉え方が一葉を追い込んだのは間違いないでろう。
一葉は母の日常的な金銭工面の小言を耳にしながらも日記に「老いた人といものは物事の表面だけを見てすぐにことの良し悪しを判断する」「私たち姉妹は世の中の評判を気にせず自分自身の信じた道をゆくだけだ。失敗したらまた立ち上がれば良い」と記し残している。一葉は母親の小言や固定概念に悩まされ鬱積した思いが募っていてもそこから逃げ出すことは一切せず、生活を立て直すことを考えながら自分自身の才能を信じて執筆活動に奮闘していたのである。このような貧しい生活でも一葉は生活を立て直そうと吉原で雑貨屋を開くことにした。結局この雑貨屋は上手くいかず店を閉めることになったのであるが、実は吉原の遊女が一葉に客に送る恋文を代筆するようになり彼女の代表作である『たけくらべ』の構想となるきっかけとなったのだ。正に一葉が言い放った自分自身の道を突き進みやりたいことをやり通す、そしてそれが失敗してもまた立ち上がれば良いと実行した人生である。
少しだけ彼女の人生からずれてしまうが『たけくらべ』の音読について話をしておこう。
雅俗折衷体と呼ばれる古い言葉の文語体で書かれているため言い回しの難しい言葉に苦戦した音読であるが、読み慣れていくとクセになる程言い回しがなぜか美しいと感じた記憶がある。吉原遊廓の輪に住む近く遊女になる14歳の少女と僧侶の息子との淡い恋と子供達の成長を描いた作品であるが、一葉の描き出した切なくも不器用な初恋や季節の移ろいと人物の心情の変化の色鮮やかな表現、進むべき道の違う二人の突如として訪れる終焉になんとも言えない感情が浮かんでは消える感傷的な思いが残る作品である。小学校低学年の子供に音読させた時「お歯黒どぶってどういう意味?」と問われ時期尚早と冒頭だけを音読させて終わったのであるが、その内容を理解できる年齢が来たら子供達にも読み直して欲しい作品である。
1896年に『たけくらべ』が文藝倶楽部に掲載されると森鴎外や幸田露伴が一葉を高く評価した。同年5月には肺結核が進行し、8月に森鴎外などが尽力して名医に診察してもらえるよう取り計らったのであるが時既に遅く手の施しようが無く回復の見込みなしとされた。そして11月23日に兄と父と同じ肺結核でこの世を去ったのである。一葉の葬儀に森鴎外が参列しようとしたのであるが葬儀の費用の工面が立たないとして親族はその申し出を固辞し身近な10人だけで延べ送りをしている。もし彼女に健康というものが備わっていれば森鴎外や幸田露伴の度肝を抜く作品を新たに世に残していたであろう。結核で亡くなる14ヶ月が自分の信じた道をゆくという覚悟が表れている作品を多くこの世に残した時期でもある。そして次の作品の構想が記された手帳の存在から考えると命の灯火が消えることなく執筆活動ができていれば繊細なそして美しい文語体の作品を残したであろうと残念に思う。
樋口一葉の人生に心置きなく学ぶ環境がもう少しあれば、そして金銭的恵まれ執筆活動に没頭できる環境があれば、何より健康な身体があれば彼女は多くの作品を世に送り出していたに違いない。たらればの話程無意味なことはないと言われそうではあるが、たらればで語っても良いほどの才能を彼女は持っていたと思うのだ。口語体が今主流の文学界において読むには難しい文語体である雅俗折衷体を彼女は平安時代から続く雅な文語体の魅力を最大限に引き出し自在に操り作品にした最後の作家であるといっても過言ではない。彼女を亡くした文学的損失は大きかったように思う。彼女が金銭的に貧しいからこそ生まれた作品であるという人がいるが私はそうは思わない。彼女の人生は文学を読むことからスタートし文語体に魅了された人物であるからこそ雅さを表現できたのである。そう考えると女性だから、時代だから、金銭的に困窮しているからなどという理由で才能を失うことほど愚かなことはないと一葉の人生から学ぶべきではないだろうか。その閉鎖的考え方も通用しないほど厳しい時代が来るであろう現代に於いて AI にとってかわる職業も多く出てくるとされている。その時代に人間にしかできないことや才能のある人物が羽ばたける環境を作るということが新時代の変わり目に行わなければならない子育てだと考えている。「この子供だからこのような生き方ができた」「僕だから私だからこういうことができた」というところに行き着くことができれる子育てや教育に結びつけるべき時代が目と鼻の先に待ち構えているのだ。樋口一葉だから成し得た文語体の美しい世界のようにAIにとって変わることがない唯一無二の存在である人物に育てるために子育てや教育をどうすべきかを現代の親は考え乗り遅れないようにすべきであろう。
最後に『たけくらべ』の冒頭を記して一葉の世界観を記して記事を終わることとする。
『廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行来にはかりしられぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と人の申しき』
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