偉人『ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル』

12月に入ると断然オペラが恋しくなる。父が当時好んで嗜んでいたウィスキーのスーパーニッカのCMで流れていたのがヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』、そして声楽家のママ友がヘンデルは「歌いやすいのよ」と話しリナルドよりアリア『私を泣かせてください〜涙流れるままに』のさわりを歌ってくれたことからヘンデルの世界に魅了され、私のヘンデル傾倒の扉が開かれたのである。

ドイツ生まれのジョージ・フレデリック・ヘンデルはこよなくオペラやオラトリオ、カンタータを美しいものに仕上げイギリスに帰化したドイツ生まれの音楽家である。彼の人生を知ると成功の秘訣というものが見え、この成功の秘訣をこれから人生を謳歌しようとする子供たちが手に入れる事ができたら人から可愛がられる人生を歩めるのではないだろうか。今回はヘンデルの成功の秘訣である地位や立場を超えて人の懐に飛び込んでいくことを考えてみようではないか。

1685年2月23日ドイツのハレで誕生したヘンデルは宮廷の外科医である父のもと誕生した。父はヘンデルを法律家にするためギムナジウムに通わせるがヘンデルは音楽に出会い夢中になり過ぎたため父は息子の音楽好きを阻止し楽器に触れることは勿論、楽器のある場所に出入りすることも音楽に関係する場所に行くことさえも禁止したのである。ここで自宅の屋根裏部屋でクラヴィコードを父に見つからないように弾いていたという逸話も残っているが、研究が進みそうではない可能性も出てきている。しかし彼の音楽に対する情熱は止める事ができずある日ヘンデルは父に宮廷に連れて行ってほしいと懇願したのである。宮廷の教会にあるオルガンを弾くこととなり、彼の演奏を耳にしたヴァイセンフェルス公爵が父にこう告げたのである。「この様な才能のある子供から音楽の世界を奪ってしまうのは社会と子孫に対する罪悪だ」公爵からそう言われるとこれまでの音楽禁止を撤回せざるおえなくなりヘンデルはここから大手を振って存分に宮廷オルガニストの元で学ぶことになった。9歳のヘンデルは作曲・オルガン・チェンバロ・ヴァイオリン・オーボエなど後の音楽活動のとなる礎になった。しかし12歳で父が急死し17歳で一家を担う為にハレ大学の法学科に進学したとされているが、やはり音楽を諦めることはできず大聖堂でのオルガニストとして契約し、音楽の道へ邁進し19歳という若さでオペラ『アルミラータ』で初演成功を納めた。彼の音楽家としての華々しい活動は別の機会で改めて論ずることとして、ここからは一人の人間としてどのように世の中を渡って行ったかを考えてみよう。

当時の宮廷音楽家はパトロンには逆らうどころかどんなに言い分があったとしても従わざるえない立場である。しかしヘンデルは自分自身の音楽性については一歩も譲らず感情的に怒りを表す一面もあったようだが、その相手がイギリス国王や貴族であっても同じような態度を示し、国王や貴族がヘンデルに対し悪かったと謝るほどであった。当時は雇われ音楽家が雇い主でありパトロンである国王に対し物申すなどありえない時代であり、尚且つ非を認めさせたというのであるから驚きの他ない。ではなぜこのような行動に至ったかである。

写真の恰幅の良い姿からも分かるように物怖じしない人物であり、カッとなりやすい一面や頑固さがあったもののその反面自分自身のことを包み隠さずユーモアに置き換える人物であったと言われている。おそらく自分自身の失敗や成功を包み隠さず話す事ができ、気負う事なく自然体で裏表がなく朗らかで嫌味のない人物であったであろう。だからこそ付き合いやすい人物であったに違いない。それが国王や女王、貴族やパトロンといった立場を意識する事なく彼らの懐にすっと入っていく事ができた最大の武器である。

このヘンデルのあけっぴろげな性格というのは人生の成功の秘訣であると考えている。裏表のない人物は友人も多く自然体でいつも自分自身の心を解放して素直に生きていけるのである。また彼のようにユーモアが備わっていれば人間関係がフランクで人の立場や地位に左右される事なく人としてコミュニケーションをとる事ができ、人によって態度を変えないということがヘンデルの最大で最良の武器であったに違いない。

そして彼にさらに備わっていたのが強い独立心と野心であった。ハンブルグでの自由都市で宮廷以外の場所での民間オペラに触れ、イタリアでメディチ家の庇護を受けず自力で渡航しイタリア様式のオペラを学び、ドイツのハノーファに戻ってからは宮廷楽長として召喚され、イギリスに移り住んでからはメキメキと実力を発揮し英語でのオペラ作品をに送り出したのである。イタリアオペラから機を見て俊敏に作品を英語のオラトリオに切り替えた音楽プロヂューサーの一面もあった。しかし彼には音楽家の他に美術品のコレクターの一面もあり音楽以外の芸術にも傾倒し、なんと投資家としての一面もあり死後の遺産には値上がりしていた株券があったことはあまり知られていない。そして彼は経済的に恵まれない人々のために設けた一部を活動費に当て、尚且つ自分の死後の財産についても毎年遺書を書き換える現実的な一面もあった。こう考えると彼の才能というのは音楽だけではなく時代を読む力もあり物事を迅速に捉えて苦境を乗り切った人物でもある。

オープンな性格そして強い意志という両輪で彼の人生は成功への道を歩んできたと言えるであろう。残念ながら彼の幼少期に関する資料が殆ど無いがために空想に近い考え方を述べることになるのであるが、人間の自己肯定感が育つ6歳までにしっかりと愛情が伝わり、尚且つ自分自身の意見を強く主張できる環境にあったであろうと容易に想像できる。

しかし彼にもう一つ備わっていたのが向学心である。音楽の友であったマッテゾンがこのように語っている。「ヘンデルは完成されたオルガニストであったが、オペラを作曲するまでは旋律の書き方を殆ど知らずフーガの作曲法以外は何も知らなかった」と。その音楽的位置からから多くのオペラやオラトリオ、カンタータを作曲するまでになっているということは生半可な努力では到底到達することはできず、想像以上の向学心があったと考える。彼の作品が現代にも歌い継がれている理由の一つに歌いやすさがあるという。バッハのオペラは音楽的に声楽家が歌い上げるには厳しいとされ現代の声楽家はヘンデルの作品からスタートするという。バッハが譜面上でおprらを作曲していたのに対してヘンデルは声楽家との交流で学び取った生きた学びを作品に活かしたといえよう。譜面上の作曲ではなく声楽を知り尽くした上での作曲によりこれらの歌が現代にも受け継がれてきたのである。

ヘンデルの成功の秘訣は人に受け入れられやすいオープンな性格と強い意志、向学心が備わっていたからだと考える。


最後にヘンデルの有名な作品の中から静かでゆったりとした美しい旋律の歌劇クセルクセスよりアリア『オンブラ・マイ・フ』を紹介しようではないか。

冒頭からこのような歌詞で始まる。

『やさしく美しい私の愛しいプラタナスの葉よ。お前たちの上に運命は光り輝いている。雷よ、稲妻よ、嵐よ、お前たちの安らぎを損なわずお前たちを汚す事がないように貪欲な南風よ。かつてないほどに樹木の陰でかくも慕わしく 愛らしく この上なく穏やかに快いものを感じる』

プラタナスの樹を子供に見立ててみたり、時に親の存在を重ね合わせたり、地球の枠組みの中で活かせれている自分自身をだぶらせたりと色々な解釈ができるこの曲を12月ん忙しない時期にこそゆったりと味わっていただきたいものである。

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