偉人『グレース・ケリー No.1』
アメリカの女優であり人気絶調でモナコ公国の公妃となり現代のシンデレラと呼ばれたグレース・ケリー。彼女が交通事故死して41年、彼女が偉人かどうかという議論をする方もおられるであろうが、子供たちの成長に取り入れることができるものがあるのであれば偉人として掲載をするのがこのブログの趣旨である。よって今回は恵まれた環境に身を置きながら努力を惜しまずに人生を駆け抜けた人物として取上げる。 それにしても美しい・・・
グレース・ケリーといえば当時セクシーな容姿が売りのマリリンモンローと人気を二分し、気品に満ちた美しさからクールビューティの異名を持ち名監督のヒッチ・コックから何度も指名を受けた女優であった。世界でバチカン市国に次いで2番目に小さな国モナコ公国のレーニエ大公の妃選びの中に彼女とマリリン・モンローがいたというのは有名な話である。現在のモナコ公国といえば世界屈指の高級リゾート地で世界の金持ちが集う国として知られているが、彼女が嫁いだ時代はイタリア文化圏にありながら実質はフランスの俗国で不安定な情勢を持ち知名度も低い小国に過ぎなかったのである。大国フランスの動向に戦々恐々としていた国から飛躍的にフランスに対抗する独立国として世界的に認知されたのは彼女の貢献があったのも事実である。
1929年11月29日アメリカ・ペンシルべニア州フィラデルフィアのアイルランドのカトリック系の裕福な家に4人兄弟の第3子次女として誕生。父ジョン・ブレンダン・ケリーは瓦職人という職業に就きながらボート競技でオリンピックで2個の金メダルを獲得した人物である。そして母マーガレットは若かりし頃はモデルと水泳選手として活躍し、後に大学で心理学や体育学を教えていた美才女である。父ジョンはスラム街で育ちながら裕福な家柄の者だけが行えたボート競技で頭角を表し、嫌がらせや妨害を受けながらもボート競技をやり抜き後にレンガ製造会社を作り名士となった反骨精神の強い人物である。また兄も父と同じボート競技でオリンピック銅メダルを獲得し、姉や妹も運動神経や器量が良かったと言われている。外遊びやスポーツを好む兄姉妹の中でグレース・ケリーは大人しく読書をすることが好きで兄姉妹の中でも常に控えめな子供であったという。
父はスポーツが兄姉妹よりも劣るグレースを不器用な子供と見ており、常に姉のペギーと比較していたという。25歳で女優としての最高のアカデミー主演女優賞を獲得した時にさえも父は「いつも何かをやり遂げるとしたら姉のペギーだと思っていた。グレースができることでしたらペギーの方が上手くできますから。全く信じられません。」とインタビューに応え決して彼女を認める事はなかったのである。グレースはこの父の言葉に酷く傷つき「オスカーを受賞したその日が私の人生の中で一番寂しい時であった」と語っている。父は現実的でありのままも思いを発言しただけなのであろうが、グレースにとっては父からの承認欲求が欲しかったのであろう。ただただ父に認めて欲しかった=愛情が欲しかったと言える。
彼女がモナコ大公と結婚するまでに多くの年上の恋人や既婚者との恋愛に求めていたのは、やはり父から受けられなかった愛情というものを埋めようとしていたのであろうと推測する。しかし父ジョンは私が考えるに決して娘を愛していなかったとは思えない。おそらく先述した通り父ジョンはスラム街で育ち反抗精神で土地の名士になるほどの努力を積み重ねてきた人物であり、そしてスポーツマンとして根底に流れるエネルギッシュに行動する他の子供達のようなパッションをグレースに求めていただけであろう。
これまでの偉人の中にも親の思い描いたものとは異なる位置にある子供たちを軌道修正しようという親のエゴが介在する様子を見てきたが、おそらく父ジョンも彼女を不器用な子供と見ていたのは自分自身の価値観を変えることができなかったからに違いない。グレース・ケリーが常に求めていたのは単に父親に認めてほしいその一途な思いだったのである。賞を受賞した時のこの笑顔には『今度こそ父に認めてもらえる』という期待を胸いっぱいに抱えていたに違いない。それが露と消えた瞬間の彼女の思いを想像しただけで胸が張り裂けそうである。
しかし彼女はただただ大人しい子供ではなかった。時系列が前後するが彼女が女優になりたいと父に決しの覚悟で伝えたのは18歳である。父は彼女の話にこうきり返している。「引っ込み思案で恥ずかしがり屋のお前が、姉のペギーならまだしもお前には無理だ。しかも若い娘がニューヨークだと。」ここでも姉の名前が出たのである。しかし彼女は援助も何もいらないから行かせてくれと懇願しニューヨークの名門演劇学校に入学したのである。ここでお分かりだろうか。外見では判断がつかない父譲りの熱きパッションが彼女の中にも備わっていたのである。
子供の頃から三姉妹の中でいちばんの不器用な娘だと言われ、常に姉と比較され自分の進むべき道はこれなんだと伝えた時でさえも父は認めてくれず、彼女は父の発言をするであろうと予測し、劇作家の叔父に頼んで女優の養成所を紹介してもらっていたのである。そして父譲りの努力を惜しまず20歳で初舞台を踏みその演目は図らずも『父』であった。そしてこの舞台を観ていた映画関係者が惚れ込んでグレースを映画の世界に誘ったのである。舞台女優を目指していた彼女がハリウッドの映画の世界に飛び込んだのもまたデビューすれば父が認めてくれるかもしれないという思いがあったという。
彼女の残した言葉に「自分の気持ちには従うべきだと思います。いつも私はそうしてきました。」「自分の直感や第一印象を信じるのです。」これらの言葉からも彼女の芯の強さが垣間見えるが、父との間に存在する溝を受け入れた時彼女はこうも語っている。「過去は振り返らない。私は後悔よりも良い思い出が好き」「怒る事は何の解決にもならない」と。彼女が残したこれらの言葉からも分かるように幼い頃からの環境や公妃になってからの厳しい環境が彼女を更に強くし、与えられるのを待つのではなく自ら全てを受け入れる強さを獲得したとも言えるだろう。そしてこうも語っている。「今私は人生の中でとても幸せな時を過ごしている。でも幸せでいることは誰もがその状態に永遠にいられるわけではない。人生はそういうものではないわ」と。正に女優として公の立場にあり公妃となってからは更に国民の厳しい目に晒され、一般の女性ならとうに弱音を吐いてそのプレッシャーに押しつぶされているだろうが、やはり彼女の中には父から受けつついだ熱きパッションがあり、大公が国の存続の危機に晒された状況でも妻として夫を支え、どのような時でも落ち着きと優雅さそして潔さで難局を乗り越えた。父ジョンが彼女にはないと言っていた器用さをさらに上回る熱きパッションと自らの努力を惜しまない父譲りのものは確かに彼女の中に存在し受け継がれていたのである。
さて私たち親は彼女の幼少期から子育てに何の糧を得るのかということであるが、同じ親から生まれてもそれぞれの子供の持ち味は違い、一見家風の中で浮いているようであってもその真髄がしっかりと受け継がれ子供達それぞれの中に脈々と流れているものがあるのではないかと子供達をそれぞれに俯瞰し見守ることが重要であるということだ。そして子供自身がやりたいという確固たる信念を示した時にこそ、親の思いや意思にそぐわないものであっても受け入れなくてはならない時が来るかもしれないと心に刻んでおくことが必要であろう。たとえそれが良い結果を生まないものであったとしてもそれを受け入れる度量の大きさを持つ努力を親は怠るなということである。その親として度量が試される話については次回のグレース・ケリーの親としてのブログ記事(2024年2月2日)にて取り上げる。
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