偉人『グレース・ケリー No.2』

グレース・ケリーといえば・・・と問われると映画ファンであれば彼女の出演作を思い浮かべるであろうし、生け花に精通している方であればグレースが日本の生け花をこよなく愛し、彼女の死後に海を埋め立てて彼女の愛した日本庭園がモナコに作られたことを思い出す人もいるであろう。しかし圧倒的に女性陣はエルメスのケリーバックを思い出すのではないだろうか。妊娠中にパパラッチからお腹を撮影されないように咄嗟にバックで隠したことからその名前が付けられたものであるが、子供の入園入学式にはお持ちになる方もおられるであろう。友人の間ではケリーという名前は生々しいからと『サック』という呼び名を使っていた。元々エルメスでは『サック・ア・クロア』という名前がついており、一躍グレース・ケリーの写真が有名になりモナコ王室の許可を得て名前が『ケリーバック』と改名されたのである。またグレース・ケリー通であれば彼女の生家が息子アルベール公によって購入されたことを知る人もいるだろう。15部屋からなる豪邸は広大な裏庭に、模型電車が走らせることができる巨大な地下室、子供たちのために冬はスケートリンクになるテニスコートなど父ジョン一代で築いた豪邸はレーニエ公からのプロポーズを受けた場所でもある。こう考えるとグレース・ケリーという人物は生まれながらにして大変経済的に恵まれた人物であり、その美貌もまた両親から受け継いだ贈り物であり、彼女にまつわる話は湯水の如く溢れ興味深い人物だ。また日本人にとっては大変光栄で心に刻むべきメッセージを発信していたりする。

上記のようにたくさんの切り口で記事が書けそうな気がするのであるが、今回はグレース・ケリーが親として子供達をどのように育ててきたのか、そして彼女なら現在の子供達の行動をどのように理解するのかを想像してみることにする。

今でこそモナコ公国は小さな国でありながら世界的に知名度を上げ、発展途上の国々が援助を求める裕福な国となったが、彼女が嫁いだ当初は国自体が存亡の危機にあった。フランスの大統領シャルル・ド・ゴールから重税に応じなければモナコをフランス領土に併合すると強いられ、フランスとの武力衝突に発展するかの重大な危機を迎えていた時代もある。そしてグレース・ケリーは公妃として国の存亡が脅かされる時に自分自身が国の存続に貢献できる方法を見つけ君主を支えることに徹した賢い人物である。しかし結婚当初からそのような行動をとることができたのではない。

結婚当初グレースはフランス語に苦戦し、公務で忙しいレーニエ大公は不在のことが多く宮殿でのしきたりにも苦労が多く彼女は孤独を感じていた。更に結婚後公の場に姿を見せないことで国民は受け入れることができなかったという。結婚から5ヶ月余り孤独に耐えられなくなりアメリカに一時帰国をしたのである。モナコに帰ってきたら立派に公妃を演じることを約束してからの一時帰国というのだからロイヤリティな立場というものは華々しいもの以上の苦しみがあったのだろう。

モナコに帰国後も異国の宮殿での生活や離れつつある国民の心に悩まされたに違いなく、公妃としての立場を理解しているのかというような言葉を耳にすることが多くあったというが、彼女が大きく覚悟を決めたのが第一子となるカロリーヌ公女の妊娠である。モナコの未来となる子供のために立派な公妃となることを決意したと言われているが、ここから彼女の強く逞しい時に凛とした姿が垣間見えるエピソードがたくさんあるのだ。

例えば乳母に任せる子供の世話を公妃であっても母親として愛情と理解を忘れたくないとして、乳母に任せることはなく自分自身の手で授乳し世話もできるだけ自分でしていたという。日本の美智子皇太后もイギリスのダイアナ妃もそのようにしていたのだからロイヤルな人々の意識も母性によって変革が許される時代になったのだろう。

グレースもレーニエ公も子供達には優しく時に厳しくを実践した子育てを実践したという。公務で出かけなくてはならなくなった時愚図る子供の声を耳にすると、出かける時間を少し遅らせてでも子供と向き合い、泣きじゃくる行動を起こしていると公務に行けないことを伝えた上で待ってもらうことと公務のその重要性を確りと伝えたという。また宮殿内での侍従らが全て子供の世話をしてしまうことを危惧し、自分のことは自分でさせようと食事した皿を子供達自身に下げさせたという。また子供達に多くの経験をさせようと宮殿ではなく自然の中にある別宅で自分の故緒は自分でするという場所を設けたそうである。また興味深いのは文化への貢献で日本を訪れた折、有馬温泉で同行していたステファニー公女が畳に敷かれた布団に寝ることに対し、床に寝ることに抵抗を示すと日本の文化と歴史を身をもって体験するよう伝えたという。郷に入っては郷に従えということだ。

しかしその一方で親の教えを従順に守っていた子供達も思春期を迎えると公女二人の反抗期は大変難しいものであったという。14歳まで両親と食事をしたことはなかった、母親よりも乳母の方がより母親のような存在であった、娘の舞踏会デビューにすら自分自身が目立つために下を向いているように言われたなど様々な話が飛び交っているが、実際問題公妃として国のために働かなければならないという事情もあり、親子間で互いの思いにずれが生じたということも十分に考えることができる。子供それぞれが結婚や離婚を繰り返し、未婚のまま子供を出産し、婚外子が発覚したりとかなりシビアな問題がある王室ではあるが両親の死後それぞれが国のために活動している。カロリーヌ公女は母の仕事を受け継ぎ、ステファニー公女は母が力を入れていた芸術やボランティア活動を、そしてアルベール公は観光・経済・環境を国の柱としものこの発展に尽力していることから、親としてのグレース・ケリーへの立場は理解できているのではないかと考える。もし課題があるとすれば伴侶とともにどのように家庭を築くのかということではないだろうか。人間に完璧性を求めるのはロイヤリティのある人々でも難しいものであろう。

グレースケリーが子供達について語った言葉がある。『私たちは理想的な親ではありませんでしたが、最善を尽くしました。実を見れば木がわかります。』

この言葉の意味がどこにあるのか考える時、自分たちなりにできることはしたけれどもそれが良いか悪いかではなく、その実を見れば自分たちがどのように育ててきたかがわかるであろう。たとえどのような形であれ子供達は子供達なりに自分自身の道を歩くと確信しているというような声が聞こえてきそうである。

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