偉人『セルゲイ・ラフマニノフ』

今週はバレンタインに関係することの記事を書いてきたからこそロシアの作曲家セルゲイ・ラフマニノフを取り上げることとする。ラフマニノフは私にとっては大切な二人の姿を思い出す曲『交響曲第2番3楽章』『前奏曲』を作曲した人物である。私にとりこれらの曲は実に大切な母方の祖母と父にまつわる。以前父の生い立ちにも触れたが先の大戦で母を亡くした父は、私の母の母(母方の祖母)をとても大切に思っていた。ある日父が仕事から帰宅すると祖母が寝ていた和室に入り、何をするでもなく襖を開けて暫く祖母を眺めて立っていた。数分後「おばあちゃまの手が微かに動いた」と言って部屋からそっと出てきたのである。子供の頃は父の発している言葉の真意を汲み取ることはなかったが、父の晩年を見てきた今の私は、祖母の命の確認をしていた父の優しさに気付いた。自分の娘を呼ぶのではなく父の名を呼んでお願い事をしていた祖母の柔和な顔を見てはこの2人が親子ではないかとさえ思えた。二人でいる時によく祖母はラフマニノフのレコードを掛けていた。ラフマニノフの作品は実に深いものがあり、彼の作品を耳にすると目頭が熱くなる。深いところからじんわりと醸し出される美しい旋律をバレンタインだからこそ皆さんに聴いてほしいという思いだけでラフマニノフを取り上げる。

セルゲイ・ラフマニノフはロマン派音楽を大成させたピアニストであり、作曲家、指揮者でもあった。1873年ロシアの貴族で自然豊かなノブゴロドで生まれた。祖父もアマチュアのピアニスト、母はもピアニスト、父もピアノを演奏する貴族の音楽家一家であったが、父親の経済的破綻によりいラフマニノフ9歳の頃領地を売り払いペテルブルクに転居。しかし到着後猛威を振るっていたジフテリアに感染し妹が死亡、ラフマニノフは一命を取り留めたものの家の没落と子供の死が引き金となり父母の諍いは絶えず、父が家を出て行ってしまったのである。当時ラフマニノフはピアノの才能をかわれペテルブルクの音楽院に奨学生と入学していたが、愛情深い父との別れで心に傷を負い学業が疎かになり、父不在の痛みに心が追いつかず不登校となりスケートで気を紛らわしとうとう全ての科目で落第となる。母はその窮地を従兄弟のピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し彼の教えるモスクワ音楽院に12歳で編入することができた。

そこで彼が指導を受けたのが指導が厳格で名の通っていたズヴェーレフと出会い、彼の元で規則正しい生活と毎日3時間のピアノ練習、脱力とリズムを徹底的に行うことで技術が上達した。このズヴェーレフの元にはチャイコフスキーなど有名な音楽家が訪れており、チャイコスキーはラフマニノフの才能をすでに認め絶賛していた。ラフマニノフは多くの下宿する生徒たちと交代制でピアノを練習することに満足できず、自分専用のピアノを要求しそれに激怒した恩師のズヴェーレフによって16歳で下宿を追い出された。そこに手を差し伸べたの叔母夫婦が自宅に彼専用のピアノを準備し18歳で滅多に受賞者がいない大金メダルを獲得し主席でピアノ科を卒業し、19歳で作曲科も主席卒業を果たしている。

卒業後のラフマニノフをサポートしたのがあのチャイコフスキーで「彼は将来大物になると見込んでいます。」とさえ語ったそうである。ラフマニノフは悲観的になり初のオペラは成功しないかもしれないと思っていたらしいが、チャイコフスキーの言葉通り大成功を収めた。

時代を一世風靡する大物作曲家のチャイコフスキーに太鼓判を押されてもまだ悲観的な考え方でいたのはどういうことなのかをまた自由な発想で掘り下げてみる。

父ヴァシーリイ・アルカージエヴィッチは貴族の後継者でありながらも領地の経営には才能がなく一家は没落することになるのであるが、とにかくラフマニノフの父は子供達にとって優しい子煩悩な父であった。ラフマニノフが音楽家として成功したのちに幼くして別れた父に定期的に金銭の援助をしていたことからも分かるように、幼い頃に両親が離婚して母に引き取られてもなお父に対しての援助ができるということは幼い頃の父に対しての思いが残っているということである。父は大変朗らかで呑気な人だったと言われ、当時では珍しい貴族の男性が小さなスプーンで子供に食事を食べさせたり、前掛けをかけて4歳の子供を自分の手で入浴させ、子供と接するときは嬉しさのあまり目を輝かせていたという。また彼がピアノを弾くと居眠りをしていた老婦人が目を覚まして踵を鳴らし拍子を取り始めるほどのピアノの腕前であったという。一方母のリューボーフィ・ペトローヴナ・ラフマニノフは背が高く娘の頃から頑なに自分自身の考え方に閉じこもる気質で無表情で無口な女性で躾も厳しい人であったという。経済的にも厳しい中子供達を育てた気丈な母親でもあるのだ。

ラフマニノフの人生を語るときに音楽的な面から交響曲の演奏の失敗やトルストイに批評され鬱になったり、催眠療法で窮地を脱したり、政治的発言をして祖国を離れなくてはならなかったこと、長らく祖国から批判を受け認めてもらえず苦しんだことが取り上げられることは多い。がしかしこれには全ての元凶が幼い頃の影響であることについて論ずるものはさほど多くない。父の領地経営が厳しい頃、ラフマニノフは真夜中に父が書類に目を落としながら肩を落とし手に顔を埋めている様子を見ていた。そして父の書斎からヒステリックな叫び声とガラスの割れる音が聞こえ、それが収まると同時に母の啜り泣く声に心臓が激しく鼓動し冷たいものに胸を押さえつけられているように感じたそうである。そして女中たちがヒソヒソ話をし、食卓では冷たい沈黙が流れ、勤めていた使用人が次々と姿を消したという。間をおかず役人が家に押しかけて家の隅々まで見て周り、父は途方に暮れ中庭で何時間も立ち尽くし母は部屋に閉じこもって出てこなかったという。幼心に数日の間にこのような経験をすれば幼い子供の心に大きな重石が置かれるのは当然のことである。

そしてその環境の変化だけでなく大きな打撃を与えたのが両親の言い争いであろう。また生死を彷徨うジフテリアに罹ったこと、そして妹の死を熱にうなされながらドア越しに察知し啜り泣く声と葬儀の歌と香炉の香りを嗅いで事実だと確信した。熱にうなされていたとはいえもしかすると自分自身も・・・という不安な気持ちになったであろう。ラフマニノフは回復後隔離期間が終わると叔母のうちに引き取られる話を耳にした。そして彼は夜が来るのがとても辛かったという。毎晩父と母が子供達に聞こえないように声を押し殺して言い争うことにやりきれずにいた。母に目を向けると眉すら動かさず憤りと軽蔑で父を見ていたという。そこから父と母が離婚し大好きな父が出て行ったのであるから、それはもう子供の心を抉った出来事であることは間違いない。彼は幼くして物事を不安定の中に置き深く考えることが身についてしまったと言える。

これはラフマニノフを鑑賞している人々の間で共感されることであるが、ラフマニノフの作品は決して軽快で薄っぺらな作品はない。どの作品もお腹の底が揺さぶられるというか、大きなうねりの中で掻き回されて漂う深さを感じることができる。と言っても才能がある彼の作品は素晴らしい曲がたくさんありドラマや映画に多用されている。『パガニーニの主題による狂詩曲第18変奏』はスケールが大きい。また浅田真央氏のスケートで用いいられた『ピアノ協奏曲第2番』や『ピアノソナタ第2番第1楽章』も聴き応えがある。ラフマニノフの深さは心を砕いた深さであり、その悲しみや不安などを全て音楽で昇華させたと言える。娘たちに見せる笑顔には幼き頃の苦しみ・悲しみ・不安や演奏時に魅せる厳格さは一切なく、慈しみに溢れていたという。彼の作品に心を切り裂くような怒りのものがないのは、愛されて育ったという思いが流れていたからに違いない。そして最大の特徴である深みは幼少期の育ちから物事を深く考えなければならない環境から生じていると考える。

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