偉人『牧野富太郎』

今週はこの偉人が取り上げられるのではないだろうかと予想していたお母様もおられ、この記事を読んで的中したと小躍りされているであろう。そう、あなたの予想意見を煙に撒くのは難しく我が目が泳いでいたことで確信したであろう。しかしあなたの予想に反して牧野富太郎が幾度の困難に立ち向かい克服するバイタリティについて記事を展開するのではなく、今回はパイオニア的偉人達の多くが幼児期に自然に目を奪われ大業を成し得た理由を『牧野富太郎』を通して再確認する。偉人記事を楽しみに予想し深読みして下さる方が登場し嬉しく思うと同時に、その予想を良い意味で覆す悦びに目覚めてしまったようだ。

さて私がこの牧野富太郎氏と出会ったのは父の持つ植物に関する図鑑であったような気がする。それが牧野植物図鑑であったか定かではないがあまりにも美しい写真のような緻密な描写が印象に残っている。その植物図鑑が現在もなお書店販売されているのであるから、いかに彼が情熱を持って日本の植物を分類し体系付けていったのかが明白だ。

一人で日本の植物を調べ尽くすには極めて困難な大偉業を成し得たのであるから堅物かと思いきや、彼に関する書物を読めば読むほど人を巻き込んで植物取集をシステム化し日本全国の植物を入手できることを考えた知恵の持ち主でもある。そして何より植物をこよなく愛しその面白さ楽しさを共有するためなら自分を笑いの的にして周りを笑いの渦に引き込んでしまう魅力的な人物なのだ。彼の愛嬌溢れる瞬間を目にするとつい笑みが漏れてしまう。その反面頑固で気骨のあるいごっそうっを絵に描いたような人物でもあった。真っ直ぐで権威に屈せず妥協しない牧野富太郎の生き方が垣間見える。しかし私の知人もそうであるがたいへん付き合いやすく盃を交わせばもうお友達という感覚が滲み出ている。その点からすると牧野富太郎は盃ではなく植物を通して多くの人々と交流を続けた人物であり、とてもチャーミングな人物なのだ。


前置きはこれくらいにして牧野富太郎とはどのような人物であったかを見ていこう。

幕末期の1862年4月24日高知県高岡郡佐川町の造り酒屋兼雑貨屋を営む岸屋という有福な商家の父佐平と母久壽の長男として誕生する。しかし3歳で父、5歳で母、6歳で祖父を相次いで亡くし祖母浪子によって育てられるが、その浪子が富太郎を私塾や名教館に通わせ教育を施した。当時の日本の教育環境は武士の子供らが教育を受ける環境にあり商家の跡取り息子が武士の子供らと共に学ぶ環境にはなかったばかりではなく、義務教育という教育制度も確立されていない時期である。そう考えると祖母の浪子が富太郎に学びの機会を与えるというのは、やはり高知の女性ならではの気質ゆえのことであったからではないだろうか。

富太郎はその教育のおかげで江戸時代に最も栄華を極めた本草学という学びを通して多くのことを吸収した。当時の教育はこの本草学という学問の他に論語などを誦じる暗唱というものをとことん行う教育を受けている。寺小屋での教育の代名詞としてあげられる幼い頃の柔軟な脳を持つ時期に多くの書物を唱えて覚えるという教育をこの牧野富太郎も受けているのである。この2つの教育により彼は高い能力を獲得していったと考えられている。その証として明治に入り義務教育が導入され富太郎は12歳で小学校入学となったもののあまりにも授業がつまらないとして自主退学し、その数年後にはその小学校で教鞭を取ることになった。

彼を語るときに小学校も出ていない彼が東京帝大で講師として教鞭をとり博士にまで上り詰めたことがいささかイレギュラーな人物であると思われがちであるが、時代背景を知り彼の受けてきた教育を考えると東京帝大の講師ではなく教授となっても不思議ではない人物である。そしてゲーテの記事でも記したが、先人が残した学びから多くの重要な核的学びを牧野富太郎は実践しているのである。偉人と呼ばれる人物は西洋やアジアなどの地域や国々に関係なく先人の学びを修め、その当時にできることを行うという道を歩むのだが牧野富太郎もまたその方法で突き進んだ人物なのだ。

実は多くのエッセイを記し自叙伝も書いている富太郎であるが、いつ植物に目覚めたのかという点に於いては一様に「物心ついたころから訳もなく植物が好きだった」と語っている。しかし能力に秀でている人物の多くは幼少期で大変印象に深く刻まれるもの見聞きし経験をし、その人物の才能や能力に深く関係している。乳幼児期の経験の豊富さとそれらを通して得た刺激や発見、興味や関心は能力に比例していると断言してもいい。この段階で牧野富太郎の才能の開花の引き金がどこにあるのか見当がつけられたであろうか。ここで見当をつけることができたら子供にとって何が重要であるかを気付けた親御さんであろうと私は思う。

まで気付けていない親御さんのためにさらに一歩考察できるように説明をすると、牧野富太郎は自然豊かな高知の野や山を幼い頃から駆け回っており、植物のみならず昆虫や鉱石にも興味を示していた幼少期がある。彼が興味を示したものがどこの位置に多く存在しているのかを考えると答えを導き出せるであろう。

それでは答えを解説しよう。その最も重要なものは乳幼児期の目の高さで何を見てきたのかである。常々書いているが子供は視覚優位である。その乳幼児期の目の先に何があったのか、何を見たのか、そして見たものを手にすることができたかによって能力の開花の目覚めが存在すると言ってもよい。そしてその目にしたものが人工的なものではなく多くの刺激を含んだ自然の中に溢れるものであればあるほど五感に与える刺激は良質なのだ。

ハイハイをし始めた子供がどこでそんなものを見つけたのかと疑問に思うほど小さなゴミや埃を見つけてくる。やがてその子供は小さなアリや落ちた枯葉や枝、石などに興味を持ち手を伸ばして拾い始める。その時期に自然の中に身を置く経験を積ませて対象物を集中して見る力をつけておくことが重要である。またよく私が庭に現れる蝶の話を幼児をお持ちのお母様方にするが、その蝶のひらひらと舞う不安定で不規則な動きを目でしっかり追わせる体験こそが宝の山なのである。1歳の子供はその移動する様を目で追い切れないが追おうとし、2歳児で蝶を目で追うことができるようになり追視覚ができるようになり、3歳以降で不安定な動きの蝶がなんという種類なのだろうか見極めようとしたり、花の蜜を探しているのかまたはあっさりと飛んで通過していく様子なのかと判断し、瞬時に判断しながら多く思考することに繋がるのだ。そして親のちょっとした促しが加われば現在は図鑑に結びつけることができる。

蝶が飛び交う様子を子供の能力の視点とを絡み合わせて意識している親御さんは殆どいない。がしかし意識して蝶を見る経験をさせると能力が高い子供に成長するのはこれまでの生徒さんを見ても然りである。私のように小学生までベースの返還跡地でモンシロチョウを追いかけていても能力に疑問符がつく場合もあるが、自分でも直感の優れについては自負するところがある。一年を通して毎朝蝶が訪れる庭を眺めては目で追うトレーニングを今も欠かさない。これは実体験を含めても子供の能力の鍵は目の高さにあることは間違いないと考える。

実は牧野富太郎は幼い頃目の高さにある植物だけに関心を持っていたのではなく、植物の周りにいる昆虫や植物の脇にある石、そして鉱石などにも関心や興味を抱いていたのだ。牧野富太郎が植物という一つのことに夢中になっていても必ずその周りに視点を動かし関心や興味を育てていったことは、子供が蝶を目で見てその周辺にあるものに視点を動かし思考していくことと類似している。牧野富太郎の人生で現代の子ども達も先人の偉人や万能の天才であるレオナルド・ダ・ヴィンチも一直線に繋がっていると確信している。ならば真似しない手はないということだ。

牧野富太郎の観察眼は頭一つも二つも飛び出ているという域ではなく吐出している。それを裏付けるのが忠実に写真以上のものを描いている作品である。彼の植物図を一見すればその緻密で優れた観察眼と正確に植物を描くという誠実な手を持っていることがわかる。ではその手のモータースキルはどこから誕生したのかと考えると、彼が興味を抱いた植物は地面に近いところに存在し皮膚感覚を通して土の乾いたところ、湿ったところ、ふかふかとした硬い土の感触やこけ特有の触り心地や岩や石、砂地など手指を通して多くの刺激感覚を受け取っていたはずである。そして大きな植物だけではなく小さくて繊細な植物にも手で触れたり、標本作成時のピンセットなどの道具を用いることにより日々鍛錬をしていたであろう。1mmの幅に筆先で5本の線を引くことができていたというのであるからいかに彼が器用であったかが伺える。また植物や土の香りやその場所の日当たりや湿り気など空気感をからも多くの刺激を受けていたに違いない。目や手などの器官や体全身をフル活用し脳で多くの情報を処理し判断していたと考える。万能の天才となるべくした身体の使い方をしていたと言っても過言ではない。これまでの偉人達と同じように五感をフル活用していたということでもある。

そしてもう一つの彼の魅力が愛嬌であり、人たらしのような人の心を掴んで離さない身ry狗である。上記の写真でもわかるように彼はキノコを手にして踊り出すとてもお茶目でチャーミングな人でもある。日本の植物学の父、日本の植物分類学の体系を成した人物であり日本中を駆け巡り40万もの標本を作成し、1500種もの新種を見つけて命名した人物とは思えない。植物を通して交流する人々との間には植物について理解してもらいたい教えたい、楽しさを共有したいという温かな思いと軽妙な動きでその場の空気を和ませる柔軟な心を持っていた。その反面不誠実なものにはそうではないのだとキッパリと言い放つ厳しさと一途さを持っていた頑固な一面もあり、帝大の出入りを禁じられるなどの諸々の揉め事も彼にとっては許せることではなかったのであろう。また植物学を追求するために購入する高価な洋書代を実家からの支援に頼り、結局実家の商売は成り立たず廃業を余儀なくさせた。そして13人の子供を持つ家計は苦しく醤油をご飯にかけて食べたり、おかずは蒟蒻という生活を家族には敷いていたのである。またあまり取り上げられることはないが生家を切り盛りしていたのは祖母浪子の勧めで結婚した従妹とされている妻の猶(なお)の存在である。共に暮らし13人の子供の母である妻の壽衛(すえ)とは別人なのだ。ここにもドラマがあり女性問題にしても金銭問題にしても問題のある人物ではある。しかしこれは現代人からするととても奇妙で破天荒に見えるのであるが、当時の世相を考えるとさもありなんということなのであろうか。ここも面白い切り口での話を展開することができるので別の機会にしよう。下記の写真も牧野富太郎の人柄を表す写真である。この笑顔でこれをされたらたまらん。もしその場にいたらついつい声をかけたくなるであろう。

さて今日は日本の植物学の父牧野富太郎という人物を通して過去の偉人達と同じように牧野富太郎も五感をフル活用し、自然の中で多くの体験を積み重ね自分自身のすべきことを成し遂げたことを再確認した。そして私たち親がすべきことは、子供の教育で重要なことはゲーテも述べていたように先人達が積み上げた学ぶべきものを学び習得させ、子供自分自身が自らを最大限に生かす道を選べるように五感をフル活用させた子ども時代を与えるべきなのだと自覚することだ。そしてそれを体現したのが162年前に誕生した牧野富太郎であり、多くの偉人もまたその道を通過しているということだ。今日は雨空の晴れ間の天気らしい。屋外に出て蝶を発見しに出かけてみてはいかがであろうか。

次回は牧野富太郎にも深く影響を与えた本草学という教育を受けた江戸時代の万能の天才と呼ばれた平賀源内に焦点を当て記事を書く。本草学というものに興味のある方も次回の記事を楽しみにしていただきたい。

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