偉人『渋沢栄一』

今年7月から新一万円札の顔になるのが近代日本の父、資本主義の父と言われる渋沢栄一であり、彼は500社余りの会社の設立や経営に関わり、600もの教育・社会事業に携わった人物である。その人となりや幼少期のことについて記すこともできるのだが、今週は父の日に関して記しているため彼とその父の重大局面に交わした言葉に焦点を当て青年期の子育てとは何かを考えてみる。

実は子育てをする上で子供の成長期を4つに分け、その時期の親の心構えをわかりやすく説いている有名な『子育て四訓示』を先に記しておく。以下の四教訓を一読してもらえば親として何をすべきか端的に記されている。今回はその最後を4つ目が子育ての仕上げとなる重要なことであることがわかる記事内容である。そのことを念頭に置き読んでいただきたいものである。

1、『乳児は肌を離すな』
2、『幼児は肌を離して、手を離すな』
3、『少年少女は手を離して、目を離すな』
4、『青年は目を離して、心を離すな』


このブログ記事を読んでいただけている方の多くが乳児や幼児、小学生をお育てになっているであろうが、実は教育熱心な親御さんの多くが、高校生前後からの青年期にかけての子供の人生に口を挟みやすく、子供を愛するが故に子供の進む道をコントロールしがちである。渋沢栄一のように自分自身の道を決めたら進んでしまうという子供ばかりではなく、心の根の優しい子や何が自分でしたいのか見つけきれていない子、幼い頃から親が何事も決めてしまう場合は親の指し示す通りに無難に人生を進めていくことが多い。しかし自分の人生を自分で決めることができなかった子供の中には、20〜40代になりふと自分の人生はこれで良かったのでろうか、こんなはずではなかったと後悔してしまう話をよく耳にすることがある。

一方自分の人生は自分でと決めてきた人間でも親になり子供可愛さ故にレールを敷きたくなるものである。幸いにして4つの子育て訓示を然りと押さえながら子育てを経験していくと大きく逸れる子育てはしないですむ。この4つの教訓に関しては別日に改めて解説することにして本題に入ろう。

1840年3月16日埼玉県深谷市血洗島村で父の渋沢市郎左衛門と母ゑいの長男として誕生。父市郎右衛門は農民でありながら商才に長け、四書五経を読む教養だけではなく武芸にも精通していた人物であった。栄一は父から中国古典の手解きを受けつつ、家業の藍玉の製造販や藍玉の仕入れのため算術や商売の才覚を磨いていった。また従兄弟の尾高惇忠より日本史を学び出し、当時の日本の行く末を心配し過激な尊皇攘夷運動に傾倒していく。

従兄弟の尾高惇忠らと共に血気盛んに尊皇攘夷運動にのめり込んでいった。それまでに農民と武士との違いをまざまざと見せつけられて不満を抱えていた栄一にとっては、幕府政治を終わらせたかったという理由と列強の牡蠣国要求にこのままだと日本が滅びるという気持ちが強かったのだろう。青年期の栄一は大きく迷走し父市郎右衛門は大変苦労をしたようである。

日本をどうにかしなければと力がみなぎる状態で彼が参加しようとしていたのが、高崎城を襲撃し外国人の住む横浜を焼き討ちにするというものであった。万が一の時に備え家族に迷惑が掛からぬようにと榮一が考えたのが、勘当され親子の縁を切ってもらうことであり、その親子が対峙する場面が栄一の進むべき道を照らすクライマックスとなったのである。

血の気の多い息子榮一の言い分を聞いた父市郎左衛門はどのように切り返したのか。

父市郎右衛門は息子栄一の不穏な動きをすでに察知していた。

栄一はこう切り出したという。「天下が乱れ外国へ侵略される日に農民だからといってのんびりと家にいられるわけがない。」

すると父は「お前が自分の役割を超えて、望むべきものではないものを望んでいるのではないか」と逆質問をしたのである。すると栄一は「農民だからといって傍観していられるでしょうか」と頑なな腹の括りに父は以下の言葉をかけ親子として対峙する最後の場面に幕を引いた。

「もう決してお前の行うことにあれこれ良い悪いを言わないから、この後の行為によくよく注意し、人の道理を踏み外すことなく踏み間違えることもなく、一片の誠意を貫いて仁人義士と言われることができたなら、その生死や幸不幸とに関わらず俺はこれを満足に思う」と。

武士としての親子であればこのような会話もさもありなんであるが、父市郎右衛門も農民の出ではある。よくぞここまで然りと親としての筋、人としとの道理が通せたものだ。やはり書物に精通していたためと言えるであろうが、やはりそこは父市郎右衛門が息子よりも何倍も物事を見極める才覚にあったといえよう。

私は息子渋沢栄一が世間でもてはやされているが、取り上げるべきは父市郎右衛門であると考えている。農民としての家業を貫けと頭ごなしに息子を制圧できる時代であるがそうはしていない。あの時代に父として息子を尊重しやはり成人した息子の決めたことにとやかくいうことはせず、よくよく自分の行動には注意すべきであると苦言を指した上で、人としての思いやりを備え人間として正しい道を固く守り抜いて行動してくれたのであれば、いかなる結果を招いたとしてもお前の決断を尊重するという意味の言葉を送ることができた人物である。なんと判断力と決断力に優れ、ここぞという時に息子の人生を左右する言葉を投げかけることができたのかと息子榮一よりも数段上をゆく人物であり、その人生こそが紐解かれるべきではないだろうかとさえ思うのである。


4、『目を離して、心を離すな』

榮一が父を説得して数ヶ月江戸へ遊学させてもらっていることからもわかるように食うや食わずの当時の貧しい農民ではなく、ある程度成功した家柄であることは間違いない。だからこそ勉学も遊学もできたのではあるが、成人した息子の行動を受け入れることができた父市郎右衛門はある程度息子の行動に目を伏せ容認していた部分もありながら、決して息子のことを困った息子だと突き放すことはなく、心を配りながら息子栄一の行く末を見守っていたであろう。今でこそ子は親の分身ではなく一人の個人であるという考え方であるが浸透しているが、当時としてはかなり前衛的な考え方であったのではないだろうか。我が母が自分の思い通りにしたいと思う時にこそ、潔く諦めて良い意味で匙を投げなさいと言われたことがある。その言葉がまさに市郎右衛門の行動とリンクしたのである。私にしてみればこの発見は野球の三遊間を抜けたクリーンヒットとのように清々しいものであり、親としてのコツというものを掴めたといっても良いだろう。


さてその後の栄一であるが尊皇攘夷運動には参加せず、倒幕を目指していたはずなのに一橋慶喜の家臣となり、パリへ、そして明治政府に求められ大蔵省へ・・・右往左往しながらの迷走時にも栄一は父市郎右衛門に掛けられた仁人義士として道理を踏み間違わない踏み違えないように誠意を貫くことを実行し続けたと言われている。そのことからもわかるように父市郎右衛門の親として腹を括った時に放った言葉というものは、子供の人生を大きく作用し、日本の経済的歴史にも大きな影響を与えたと言える。

子育て真っ只中の親御さんにとってはまだまだ先のことだとお思いかもしれないが、子育ては特に一生懸命になればななるほど五里霧中の世界に迷い込む。そんな時大筋を立ててくれるのがこの4つの子育て四教訓である。そしてそうこうしている間に最終章の段階になる。今どこの位置にあるのかを常に確認すると何かしら見えてくるものがあると考える。

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