偉人『歌川広重』

今週は時系列に関する子育てサジェスチョンの記事だったこともあり、偉人の候補は時計に魅了された服部金太郎の予定であった。しかしなぜか決定打に欠けるような気がし記事が思うように書けない。そうこうしている間に一週間経ち、二週間たちブログ公開の四日前にまで迫っていた。こういう時には焦ることより頭を冷やす方が先決で丸一日何も考えず匙を投げてしまった方がヒントが生まれやすい。うつらうつらとしたタイミングでふと浮かんだのが安藤広重こと歌川広重である。ふとした瞬間に何か思い立つことは私の独占専売のようなものでほぼ目覚めの朝方にその現象は起こる。そこから思い出しの作業が始まるわけであるが、歌川広重に関しては彼の作品から子供達が理科的好奇心で読み解いた事実を交えながら、時間の流れや自然現象や事象の流れを組み取ることを子供の成長、観察眼、伝統芸術への関心を育んでほしいと考える。

本題に入る前に私と浮世絵の接点をご紹介しておこう。かなり古い永谷園のC M曲に北島三郎氏が歌う『函館の女』の替え歌がある。「はぁーるばるきたぜ鮭茶漬け〜、あなたと食べたい鮭茶漬け・・・永谷園のさけ茶漬けだよ」というものがあった。私の記憶を辿れば同級生の男子たちが下校時に集団で歌いながら帰っていたほど人気があった。それと同時に私の中に印象深く残っているのが永谷園のお茶漬けの中に1枚必ず歌川広重の東海道五十三次の作品カードが入っていたことである。当時トランプサイズの小さな浮世絵の世界観に何かを見出すことはなくアメリカ人が好きなものとしての位置付けであった。成長と共に西洋美術に興味を持ち始めると浮世絵の持つ圧倒的な描写に驚かされ、子供を育てている中で浮世絵にどっぷりと浸り子供の発見にハッとさせられたのが歌川広重である。今回の記事はどちらかというと広重の人生より作品の解説記事に近く、広重がなぜ彼独特の世界観を生み出すに至ったのかを考えてみようということである。

広重は1797年に誕生しているが生年月日は不明である。江戸の定火消(じょうびけし)同心の安藤源右衛門の長男として江戸城の馬場先門近くの八代洲河岸で生まれ育っている。しかし13歳で母を亡くし、父も同心の家督を息子広重に譲ると母と同じ年に死亡した。13歳で両親を失い家督を受け継ぎ一家の大黒柱として働くこととなったが、同心になりたての13歳の少年が城下の火消しとしてすぐに役に立つわけもなく、火の怖さに怖気付き使い物にならないことも多かったようである。また下級武士としての稼ぎも二人程度の賃金しかもらえず、姉や妹らを養うことができず、母方の祖父を頼りに定火消としての日々を過ごしながら生活費を補うため副業として絵師活動した大変な苦労人である。

子供の頃から絵は上手であったが時世に乗ることが難しかった。食べていくためには浮世絵師にならなければと王道の美人画や役者画で大人気の絵師歌川豊国の門を叩くがこれ以上門下生を増やせないとして断られ、仕方なくも名所画を得意とする人気薄の歌川豊広に弟子入りする。一番手の美人画や役者画を描かないため鳴かず飛ばずの絵師で生活は大変貧しいものであった。35歳にしてようやく絵が売れ出したところで持てる力を発揮しここからが勝負という時に広重の前に立ちはだかったのが葛飾北斎である。満を持して発売にこぎつけた東都名所画は北斎の『神奈川沖浪裏』の爆発的に人気を前になす術が無かった。


しかし北斎が形にこだわったデフォルメの超人的画家であるのに対し、広重は写実的でより遠近法を忠実で効果的に、そしてヒロシゲブルーというベロ藍にこだわった堅実的な絵師である。世界的に見てもモナリザに次ぐといわれる北斎の富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』に敵わないという広重の作品の評価であるが、私は広重の定火消として鍛えに鍛えられた観察眼が北斎よりも並外れていると感じている。最初の名所江戸百景『大はしあたけの夕立』に描かれている雨は風景画でありながら人々が急な夕立に振られ慌てて足を早める様子は、広重の温和で暖かな性格とユーモアに溢れる人情味、そして何よりも好奇心旺盛で柔軟に創意工夫をする人間臭さが窺える。


上の『深川洲鎌崎十万坪』は子供がかっこいいと連呼していた作品で、愛鳥週間にバードオッチングをして以来猛禽類にどハマりし、雪で静まり返る銀世界を悠々とワシが飛んでいる様子を手を広げ真似ていた作品でもある。なぜ子供がこんなにも心惹かれたのかというと、広重の作品の特徴として印象深いものを手前に大きく描くという遠近拡大法を用いているためよりリアリティが増し力強いワシの生命力の動きと静まり返る白銀の世界の静けさが子供の中に迫ってきたのだろうと考える。ワシになりきって広重ワールドに入り込めたのにはやはりバードオッチングの経験あってのことだ。この作品をきっかけに子供達は広重世界に突入していったのであるがやはり作品から何を読み取るのかを意識しさせたことは大正解だったと実感している。

広重の凄さは地味ではあるがやはり感覚的に子供でも思考があれば受け入れやすいこともあり、北斎漫画のように子供達が大笑いするものこそ少ないが、定火消として風向きやその日の天候、人の動きをよく観察した職業についていたからこその経験で描いているためある程度の年齢に達し自然事象などに気付き始めると、静かに生活の中に存在する風、雨、雪、太陽、月・・・に目を向け始め北斎がどのようにそれらを捉えていたかを読み解き始めたのである。これこそ北斎の世界には数少ないもので広重に溢れているものである。

今でこそ火事の鎮火は圧倒的に放水で最小限の被害を燃えている場所で抑えようとするが、江戸時代はの鎮火方法は風向きを読み風下の建物を壊して延焼を最小限に食い止める方法であった。当時の家屋は木造で火の手が上がると一気に燃え広がるためにそのような消化活動しかできなかったのである。その最前線に立っていたのが江戸城をまもるために配置された同心広重である。風や天候を読むことは勿論人命救助にあたる職種であるがゆえ彼の人に対しての温厚な性格や人情を大切にする生き方が作品を通して感じることができる。と同時にフットワークの軽さというものが旅に通じ多くの作品を世に送り出すことになり多くの見聞を広め東海道五十三次や他の作品が誕生したのだ。


下の作品は『こんな大きな雪だるまが江戸で作れたのかな?それとも想像かな?」という子供の疑問から調べることになった作品である。調べていくと1950〜60年代ごろまでは東京でも雪が降ると大きな雪だるまを作れたそうである。そこで地球温暖化の問題を紐解いていくことになったのであるが子供の疑問の裏に隠れている好奇心を大切にすることこそが本物の学びに通ずることを痛いほど思い知った作品である。


また広重の持つ本物の観察眼は遠近法を生み出している。

広重以外の絵師たちも遠近法を元に作品を描いているが写実的ではない捉え方をしているものも多く、あの北斎であっても写実的な遠近法は得とくしていない。しかし広重の作品は鑑賞者に迫ってくる作品を多く残し、自然事象である雨・風・雪・月・山・川・岸辺・桜吹雪などそれぞれの持つ特徴を捉え遠近法を用いて画期的に捉えることにより大変印象的な作品に仕上げている。この作品も遠くの画面奥から弧を描いて鑑賞者の元に誘導される見方もできれば、その逆でだんだんと遠ざかり夕陽の誘われるかのような構図にもなる。そしてふと空を見上げると大きな満月。このような情景を実際に子供達が目にすれば全ての条件が揃いこの作品の没頭できるのだ。


次に以下の作品は福岡だったような気がするのだが美術館鑑賞の帰りにたまたま広重のポスターが貼られており、子供がその作品の前を行きつ戻りつした面白い作品である。

桜が咲く吉原の風景が宵の月に照らされている風景だが子供が初めて見た時に「右に行こうか左に行こうか見ていると迷うっちゃうね」と話した。通りの角の切り取り方の構図が面白いと感じたようである。「吉原ってとこ探して行こうよ」の声に流石に母は抵抗があり夜桜見物が風情があって良いと子供の好奇心を煙に巻いてしまった罪悪感が残る作品でもある。子供がこれほど面白いと感じた浮世絵であるからフランスの印象派画家たちがインスピレーションを受けるのも無理はない。こう考えると日本人中に芽生える自然を愛する力が浮世絵を通して再発見できる幸せをつくづく嬉しく思うと同時に、多くの人々がそのことを見逃していることに勿体無さも感じる。


下の作品あゴッホも模倣したものであるが夕焼けが大好きな子供はこの作品を見て違和感を覚えたのである。私も子供に言われて初めてその発見に驚いたのであるが、夕焼けは水平線近くが赤く染まり上空は白っぽくなるのが通常の夕日である。しかしこの作品はその自然現象に当てはめるとあり得ない状況なのだ。この発見は我が家では世紀の発見とざわついたのではあるがよくよく調べてみると台風などが迫り来る時にはこのような空になることがあるそうだ。「なーんだ。発見じゃないじゃんかぁ〜」と落胆した世紀の大発見と思しき事実は泡と消えたのだが、そのもしかしたらの発見こそが子供の脳内を大いに刺激したのであろうと母は信じている。

今回は歌川広重の定火消として江戸を守るために鍛え抜いた観察眼が後世に残る作品に活かされ、尚且つ子供達が作品をさらっと見て終わるのではなく、思考へと繋げることができるかを兼ね備えている作品である。歌川広重の作品から多くのことを学んでほしいという気持ちと日本の伝統文化を見直すことで理科的学習も面白さを増すのではないかと思う。と同時に日本独特の芸術的ものを教育に取り入れることはアイデンティティの形成にもなる。世界に発信していく力が新しく構築されるべきものだけではなく、過去の文化芸術から発信することもできるものが日本には多く残っているだ。そう考えると広重と私たち先人も少なからず関係がある。

広重は実は『琉球人来貢図巻』という琉球から江戸に参府した一行を描いた作品も残している。作品こそスケッチ的な肉筆画できものではあるが県民としてはやはり知り得ておきたい作品である。ちなみに北斎も琉球の作品を残しているが聞いた話を元に作品にしているが、やはり広重は実際に見た琉球の人々の様子を描いた生粋の写実者だったことはいうまでもない。

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