偉人『服部金太郎』
春は卒園式や卒業式そして新しい門出の入園式と入学式、進級と子供たちにも新しい時を刻む瞬間がやってくる。その事を思う時私は中学入学時に父から贈られた腕時計がSEIKO社製のものだったと振り返り父の「時間を大切に過ごしなさい」という言葉を思い出すのだ。今回は私の時刻をしっかりと刻んでくれただけではなく、日本や世界の人々の時を刻み続けているSEIKOの創設者である服部金太郎の特質すべき能力と信念を子供たちの成長に活かしてほしいと考え記事を書くことにする。
服部金太郎の人生を紐解く前に日本の電車時刻が正確であることは世界的にも知られたことであり、このことについては何度かブログ内でも取り上げてきたが、最初からこのような正確な時刻を刻む生活をしていたのではない。江戸時代は明け方から夕暮れまでを昼、夕暮れから翌日の明け方までを夜とする不定時法で時刻管理をし今とは大きく異なる時間制度であった。その後明治5年に不定時法は廃止され現行の24時間制に変更されたのである。しかし時計が普及していないこの時代はまだまだ人々はそれぞれの時間軸で動いていたのである。つまりそれぞれが自分の時間軸で動き、人と会うにもいつどこにいるのかを見当をつけながら行動するためすれ違いは頻繁に起こっていたのである。やがて近代国家になるべく鉄道事業と郵便事業の普及に伴い時刻の正確性が必要となり時計が公の場所で使用されることになった。個人の腕時計が普及していないその時代に生きていたのが服部金太郎で、彼はそこに目をつけ共に時間を過ごそうという人々を繋ぐ目印となる時計を普及させたのである。
服部金太郎は1860年11月21日東京京橋采女町(中央区銀座4丁目)にて古道具屋を営む尾張名古屋出身の父服部喜三郎の長男として誕生。寺小屋で習字と算術を学び11歳で年季奉公に出される。年季奉公とは一定の期間を決めて労働をする代わり食事や日用品を支給され寝床も与えられる制度である。そこで金太郎が目にしたのは雨の日でも忙しく働き時間を無駄にしていない近所の時計修理店であった。当時は雨が降ると客足も途絶え多くの店も閑散とする中、その修理店だけは忙しそうに働いていることに衝撃を受けた金太郎は、これからの生活には時間を基準としたことが必要だと気付き年季奉公開けは時計に関する仕事を追求しようと決意したそうだ。
そこから14歳で日本橋の時計店、その後上野の時計店で時計の修繕の技術を学んだ。17歳で実家に戻り服部時計修繕所を開く傍ら他の時計店で働き、時計店開業の資金を貯めることに励んだ。彼の人生はかなり面白く着眼すべき点が多くあるため今回は彼に関するアナウンスはこれぐらいに留めておく。
それでは本題に入ろう。ここまでの記事内容で彼がいかに一途に時計店開業に向けての信念を貫き通していたことがわかる。そして彼の先見の明は人間が生まれ落ちた瞬間から唯一平等に与えられていた時間に気付き時を刻む時計の修理・販売に着眼したことである。また彼には人並外れた信念を持って自ら描く将来を実現しようとする高い目標があり、その実現のために弛まぬ努力を続け成し遂げた類稀なる人物である。彼には自らの信念を後押しするいくつかの才能がありその才能を子供たちにも獲得してほしいと考える。ではその能力を記していく。
まず1つ目はのみ込みの速さである。これはその場で学ぶことを理解し習得することであり、その力を発揮するためには一つ一つを正確に理解する集中力が必要だ。この集中力は3歳から5歳くらいにかけて習得させるべきものである。取り組みが早ければ早いほど集中力を磨く機会が増える。つまり3歳以前に夢中になるものを見つけ取り組ませる姿勢を習慣化し、3歳以降に好きなことに夢中になる実践を多くすることでのみ込みの速さが鍛えられる。
2つ目は丁寧な取り組みをさせることだ。服部金太郎は精工舎を立ち上げてからは人を育てることに邁進した。物作りの根幹は人であり、人を育てることは精巧な物作りにも通ずると考えていたに違いない。妥協を許さず研究に時間をかけた商品もありその丁寧さが世界を牽引するSEIKOの数々の商品に受け継がれたのである。この金太郎のような丁寧さを子供達には獲得させるべきものと考えている。私がレッスンでお母様には重箱の隅をつつく位取り組みの精度を上げるよう伝えている理由がここにある。子供の頃にこの丁寧さと正確性を身につけておけば注意深く物事に取り組むことができるが、もしそこがうまく育っていないと雑に物事に取り組むようになる。子供は本来自由に好きに行動したいものであり言葉は悪いが適当に物事をこなす一面がある。一度そのような雑さを身につけてしまうと全てのことにその雑さを当てはめていくのが子供である。その事を踏まえて丁寧に物事に取り組むという昔の日本に培われていたことを今一度大切にし見直してほしいものである。
3つ目は学ぼうとする心と姿勢である。昨今は親主導の学びが多く子供自身が夢中になり一つのことに没頭する機会は少ない。親が困るくらいの好奇心や興味を働かせることができれば子供は大きく成長するものである。服部金太郎は年季奉公や時計店での修行時には誰よりも早く店に出て仕事の準備に取り掛かり、誰よりも遅くまで仕事を学ぼうとしたという。この姿勢というものはあくなき向学心からくるものである。これからの子供達には服部金太郎のように自分自身にしかできない学びを見つけ、そこに向き合う姿勢というものを実践で身につけてほしいと考える。
4つ目は己を律する精神性である。これは大人でも獲得する道は険しいものである。自分自身で決めたことについては感情や衝動に流されずに自分自身のペースで物事を判断する力のことである。服部金太郎にはこのような逸話が残されている。時計店での修行中にその店が倒産することになってしまった。自身の店を出すために貯めていた資金をその店主に差し出したという。いくら恩義のある相手だとしても自らの夢を叶えるための大事な資金を差し出すことは現代の多くの人には躊躇して到底理解できるものではないだろう。しかし服部金太郎の考え方はやはり偉業を成し遂げるだけの考え方を持っているのだ。目先の金銭ではなくこれからの自分自身にとって必要不可欠な時計修繕の技術を教えてもらったという恩義と貯めた資金を天秤にかけ、資金以上の価値が教えてもらった技術にはあると判断したのではないだろうか。金銭や物事の損得でものを考える人物にはできない行動である。偉人の人生を紐解いてみるとこのようなエピソードが意外と残されている。私も父から物事は目先のことにとらわれるものではなく、損をしているようでも後になって自分自身に返ってくるものであり、困った時に救いの手が入る得をしたということが起こるものだと教えられてきた。それに付随して出し渋りは良くない、思い切って出したほうが人生の歯車がよく回るとの父の言葉が今も耳に残っているが服部金太郎もそのような考え方でいたのではないだろうか。そしてその意思が発明・研究・学術奨励として服部報公会に受け継がれ、現代は音楽やスポーツの分野にも広がっているのであろう。自分を律することができる人物は人に対しても大きな影響を及ぼすことを彼の人生から読み解くことができるのだ。
5つ目は信用である。服部金太郎が時計店を開いたばかりは輸入商品を販売していた。海外商会は時計を納入した場合には1ヶ月以内に代金を支払うことを約定としていたが、日本に残る古い習慣として夏の氷代や冬の餅代として盆暮にその代金を精算をする店が多かった。しかし服部金太郎はその約定を金銭面で苦労していてもどうにかして支払うことを常としていた。その行動が信用の獲得となり輸入時計を優先的に販売させてもらえる機会を得たのである。商売には必要不可欠な信用を得る術を知っていたのだ。この信用というものは1から4までのことをしっかりとやり抜いた後についてくるものである。私も多くの生徒を見守ってきたが服部金太郎にように1から4までを身につけた子供はこの信用がご褒美のように評価として与えられる。この子なら大丈夫、これからの学びを自らの人生に活かすことができるに違いないと信じることができる子供に成長してほしいものである。
毎年卒室生を見送る度に服部金太郎のように信念を持ち、一から何かを成すことができる人物になってほしいと切に願う時が今年もやってくる。子供達には自分自身の力を信じて、集中して物事の習得にあたり、丁寧に学ぶ心と姿勢を持ち、困難にあっても自分自身を律し立ち向かう強い心を発動することにより人からの信用を勝ち取り、尚且つ自分自身を信じて歩んでいってほしいものものである。
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