偉人『日本人』

このタイトルを見て騒つきそうなところではあるが、なぜ偉人『日本人』としたかと言えば、今週の提案記事が時系列についてであるが故、そしてこれまでの形式に則ったタイトルに付けになっただけである。つまりこれから始まる内容は日本人の時間的概念とは何かということである。


私が企業に勤めている頃は多くの外国人と共に働いていた。彼らに指摘された日本人の時間的概念のずれについて未だに忘れることができない。というのは時刻や時間にかなり厳格で5分の遅れも許されない日本人であるにも拘らず、就業開始の随分前に出社し、終業時刻を過ぎても残業し時間を守らない感覚を理解できないということ話である。海外セクションにいる日本人は彼らの言い分を理解でき彼らに日本人の時間感覚を無理強いすることはなかったが、部署の異なる社員との会議ではなかなか彼らの時間感覚を理解できない社員の渋い顔と外国人社員との狭間で頭を抱えることもあった。

確かに仕事とプライベートをしっかりと分ける彼らにとって日本人の働き方や時間的概念の辻褄が合わないことに気付かされたのであるが、彼らの公私的時間概念と日本人の持つ公的時間概念とは同一ではなく一括りにできない部分がある。日本人の規律や礼儀を重んじる時間的概念というものは世界的にも稀で外から見れば異様に見えるかもしれないが、一度のその生活に身を置いてしまうと彼らは母国に帰った時に日本での生活がいかに心地よいものであるかが理解できるらしい。そんな話を耳にすると日本の持つ厳格な時間的概念の素晴らしさに誇りさえ持つのであるが、実は日本人が悠久に渡り時間厳守を貫いてきた民族であったかというとそうではない。なんと日本はかなり時間にルーズな時代が長いこと続いていた歴史を持つ民族である。この話をすると驚愕の事実というような受け止め方をするであろうが日本人の時間的概念が大きく変化したのは明治以降である。

さて日本人がいかに時間概念のズレを持っていたかが記されている文献が残っている。

時を遡ること幕末、長崎の出島で海軍教育を行うためにやってきたオランダのヴィレム・カッテンディーケが、日本人の時間的概念の不確実さや無責任さについて嘆いている事実を書き記したことによると、船の修理のために注文した材木が一向に届かず修理が遅々として進まないことや正月の挨拶回りだけで二日費やし無駄な時間を新年早々大事にすること、そして工場に一度顔を出したっきりで二度と戻ってこない職人らの無責任さに嘆き、このような為体では自分自身が考えていたことの半分も実行することができず帰国しなければならないという現代の日本人とはかけ離れた事実が書き残されているのだ。時刻表通りに電車が運行し責任という言葉が重要視されている現代日本とはあまりにもかけ離れていることに驚きを隠せない。ではどのような理由から日本人の時間に厳格さが生まれ勤勉さを獲得したのかを見ていこう。

幕末まで日本には正確な時間を知らせる時刻的な方法はなかったそれが大きな為体と呼ばれた原因である。当教室で小学校2年生の時間や時刻の学習をするにあたり明治初期まで日本人が使用していた『不定時法』について一度学んでもらうのであるが、その時間的理屈は明け方から夕暮れまでを昼、夕暮れから翌日の明け方までを夜としそれぞれを6当分にし、九つ、八つ、七つ、六つ、五つ、四つで構成され、さらに季節によって昼夜の長さが変わるため時間の長さも変わるという複雑な時間的概念で生活をしていたのである。一部の裕福層の持つ日時計などを庶民は持つことがでず、城や寺で打ち鳴らす不定時法に則った鐘の音で「今は四つ時だ」などと時間確認をしていたのである。早く言えば西洋の文化が入ってくる明治以前の日本には現在では誰でもが時間を分毎に知る術がなかったのである。よって当時の日本人は正確な時間的概念を持つことなく生活していたためにヴィレム・カッテンディーケが嘆く現状が日本の至る所で起きていたというわけである。


ではここから日本がどのようにして現在における時間的概念の獲得に至ったのかを記してえおこう。

明治政府の発足により日本では明治6年これまで使用した不定時法から24時間制の導入がなされ、続々と海外からの掛け時計や懐中時計が輸入され官庁をはじめとする公共的場所に置かれるようになったもののまだまだ庶民の間ではゆったりとした時間が流れていたという。その後インフラ整備が整い始め正確な時間の導入が鉄道関係と郵便事業に置いて必要不可欠なものとなり、鉄道事業で時刻表通りの運行が行われ郵便局にも時計が置かれるようになりそれがきっかけとなり全国的な広がりとなっと言われている。そして大正9年に時の記念日という展覧会が催され日本に現代の時間軸が浸透したと言われている。世界に類を見ないわずか40年で現代に通じる時間軸の浸透の速さと正確性を兼ね備えた日本独自の時間軸を確立したのである。この柔軟な受け入れと目まぐるしく発展したことは日本人の勤勉さというものが元々あったように思う。

1900年の初期には日本人の時間的感覚は分単位になり欧州人となんら変わらない時間軸を要していた。そこからの日本人の時間に対する受け入れは欧州人を遥かに超え、規律や時間をを重んじるようになり鉄道や郵便事業以外に軍隊、学校、工場的な場所に正確な時間導入が場されていったのである。日本人の時間にかなり厳格であるのはこの時代の名残であろう。時間厳守は規律を守ることであり、集団での行動はその一糸乱れぬ時間軸の上に成立し時間を守ることが礼儀であるというような概念も併せもって現代の日本人の時間的概念の形成に至ったのである。

先述した通り外国人の同僚が言った「時間に厳しいはずの日本人が仕事になると途端に時間にルーズになる」というのは、私的に時間を考える欧米人の考えではなく、日本人独自に進化した集団時の公共的メリットを考えた他者へ迷惑をかけない、人に対しての思いやりや配慮といった捉え方で時間軸を捉えているからこその行動であると考える。

そう考えると日本人の外からの物事を受け入れ上手とそれを自分たちの中に落とし込んで発展させることを巧みに成し遂げてしまう民族性の高さというものを改めて感じる。日本には明治以前のゆったりとした時間軸の流れが日本全国に点在している魅力と明治以降に西洋文化が流れ込み日本独自の発展を遂げたスピーディさを兼ね備えた現代の面白さが相まって訪日外国人がその両方を楽しめる魅力に気づき始めたとの意見もある。そう考えるとそのギャップは大変恵まれ財産である。これほどまでに過去と現代が相乗効果をもたらす国は世界的に見ても数少ない国である。よく海外の友人が言うのであるが一見冷静で秩序性に固執した民族のようであるけれど、日本の中に身を置くとその正確的な時間軸も心地よく、他者を慮る曖昧模糊な感覚を知ってしまうと離れられない魅惑の国であると語っている。長い歴史の時系列を考えると日本人は大きな宝を手にしているのだあろう。


さてその一方で沖縄に住む人間としてやはり沖縄タイムの話をしなければならない。

私は子供の頃からかなり時間に厳しく育てられた。それは両親の考え方が県民性とはかけ離れていたからであろうが、そのお陰でチャンスを取りこぼすこともなく、チャンスを自分で掴みに行こうとする精神はそこから育まれたものであると常々感じている。『思い立ったら吉日、時間はその時にしか無く一度取りこぼした時間は二度と巡ってはこない、人との待ち合わせに遅れることは人に時間を奪うものである・・・』などあげるとキリが無い思い出される。私のせっかちな性格はこの時間的概念の賜物であると痛感するところである。よって物事をなかなか後回しにすることができずに若い頃はかなりゆったりとした時間軸を持つ人のことを理解できずにいたのであるが、子供を持つようになるとそれが根底から覆されることに直面しゆったりとした時間を受け止める修養を否応なく強いられた。今思えば他者を理解する上で必要不可欠なことを子供から学ばせてもらった。

子育ての初期においてはスピーディとは無縁のところで子供の能力や心の育みを意識しなければならず、また幼児期から就学前になると時間軸の形成を躾の中に組み込み集団生活における生活を想定して物事を子供に教え、修学後は効率性を上げながら子供自身の能力に合わせた対応が親には求められる。そう考えると子供が小さい頃の沖縄タイムはかなり良質である。しかし幼児から修学ににかけては沖縄タイムで行動する人々を反面教師で受け止めながら躾をすることが最も必要であろう。先日高校の友人とばったりとある病院の待合室であったのであるが、東京に大学進学している子供がマンションの隣人が昼夜問わず頻繁に騒いでいることに頭を抱えていたらしい。すると隣は沖縄那覇以外の育ちの大学生であったのだとか。若かりし頃は色々な失敗もするであろうが同じ沖縄でも那覇・中部・北部の県民性の違いを友人は滔々と語っていた。狭い沖縄でも少なからず地域性というものを感じることがあるが、悪い切り取り方をされるようでは何かしら原因がある。これからの沖縄を背負う子供達には大きな視野を持てるように育てるのも必要で、そのためには親自身もまた時間軸の襟を正すことが必要ではないだろうか。そして沖縄らしい優しさを兼ね備えて人への思いやりや配慮で自分自身の行動を確認することを子供達には身につけてほしい。

時間軸とは人となりを写す鏡のようなものであり、その鏡がいつ何時でも自分自身を写しながら自らの時間を有効活用できるよう成長し、その流れを他者に波及できるような人物であってほしいと願うばかりである。


Baby教室シオ

ほんものの学び。今必要な学び。乳児期から就学期までを総合プロデュースする沖縄初の乳児のためのベビー教室です。