偉人『マルセル・デュシャン』

今週の提案記事は『アートでわからないを楽しむ』記事を書いたことにより偉人はやはり難解な芸術を生み出した20世紀を代表するフランス人現代アートの巨匠マルセル・デュシャンを取り上げる。またブログ自体難解にしてみようという試みであるが・・・うまくいくだろうか。書き直しのない読み返さない一発勝負である。

「まだ芸術を目だけで楽しんでいるのですか。あなたは?目だけで?・・・」と20世紀の初めに多くの美術家を揶揄したのがフランス人美術家マルセル・デュシャの言葉である。

難解と言われる彼の作品ほど子供の心を捉えて話さない。おそらく彼の作品は子供たちの琴線に触れるらしく彼の作品を見たら「なんだこれ」と笑い出したものである。特に彼の代表的な作品である『泉』はトイレの男性用便器をアートにしたものでなぜ美術館に便器を置くような作品を生み出したのかと物議を起こし、展示会場に飾られることもなく紛失に至ったのである。既製品の便器に少し手を加えて作品としたのである。それを作品とするのかなど色々な論議が上がったのは仕方のないことであるが、もしそれが美しい花瓶や美術館においてもふさわしいものだと判断されていれば不展示にはならなかったであろう。デュシャン自身が名を伏せこの作品を出品していることから堂々と出品できないと判断した所以があったのだろう。その真意もまた難解なのだ。


そしてもう一つデュシャンが作品化したものがレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』である。なんとちょび髭を生やしたいたずらのようなこの作品は小中高校生の男子の教科書のどこかに必ず見ることができる暇つぶしの落書きのようである。当時モナリザは男性かはたまた女性かという議論が上がっていたことからデュシャンはこのような落書き染みた作品にしたのであろう。ある知人がデュシャンは他力本願の美術家で自分自身で一から作品を作ることが少ないことに彼の真意が見抜けないと語っていたが、私は少年の心を持っていたとてもわかりやすい人物であり、作品であるのではないかと考えている。知人の語るデュシャンの人物像や作品に対しての意見も納得できるが、美しいものだけが芸術ではないという考え方もまた芸術家としての真っ当な意見である。これまでの歴史を振り返っても当時酷評されたものが時代の移り変わりで後世に評価されている作品は山ほどある。そう考えると一見手抜きに見えるこれらの2作品についても色々な意見があって然りである。そして時代の変遷と共に現代でも取り上げられているのだから彼の作品もまたアートなのだ。

芸術のみならず色々な事を自分ならどのように理解するのか、わからないものを理解しようと努めることこそが思考を深めることにつながるのではないだろうか。


デュシャンの作品を目にする度にある芸術家が語った言葉が脳裏を過ぎるのであるが、「絵は見るものではない、共に生きるものだ。」と語っていたその言葉の「共に生きるもの」という意味を考えると他者が生んだ既製品を用いた作品であろうと芸術であろうと活用することに違和感を持つ必要はないのではないだろうか。芸術とは自由なものである。制作する芸術家も自由であれば、鑑賞する人もまた自由に賛否両論な意見を出してもいいものである。発信者もそれを鑑賞する人々も自由でいいのだ。自由に勝手に感じたまま思いのまま味わえば良い。

今回はマルセル・デュシャンの人生を紐解くことはしない。

偉人記事に関するブログの根底を覆す記事になってしまうが、『わからないことを楽しむ』『わからないことを感じてみる考えてみる』『わからないことをわかろうとする』ことをマルセル・デュシャンを通して実践してみては如何であろうか。

なんだ今回のブログ記事は・・・???と腑に落ちないと感想を持つ方もおられるだろう。それが『わからない』なのである。ふざけたブログ、深いところでの促しを意図したブログ、手抜きなブログ、掴み所の無いブログ・・・さて、このブログの意図するところは・・・どう感じたって受け取ったっていいブログである。

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