偉人『アントニン・ドヴォジャーク』
生後4ヶ月頃の乳児は親の話す言葉の深い理由は分からずとも親の話す言葉のニュアンスが分かり始める時である。つまり親の話す言葉の抑揚から「ママはご機嫌だな、今日は元気なさそうだぞ、口調がきついな」など人の感情を受け取るようになる。そんな時期にお勧めしているのが様々音楽ジャンルを聞かせることでありその中でドヴォジャークの作品を聴かせることも取り入れていただきたい。というわけで今回取り上げるのはクラシック界の中でチェコの民族音楽を世界に広めたアントニン・ドヴォジャークを取り上げる。
後期ロマン派を代表するドヴォジャークはシューベルト、チャイコフスキーと共に3大メロディストと言われ、彼のゴミ箱から拾い上げたメロディラインで作品が出来上がるとまで言われるほどの優れた作曲家である。ではなぜ彼がこんなにも評価が高く名を馳せたのかを考えながら子育てに活かせるヒントを今回は探し提案してみることとする。
ちなみに日本ではドボルザークと言われ表記されることの多い彼の名前であるが、祖国愛溢れる彼の思いを汲んでチェコ語に一番近いとされるドヴォジャークと表記し話を進める。
アントニン・ドヴォジャークは1841年9月8日にチェコのプラハから30kmほど離れたネラホネゼヴェスという農村の宿屋兼居酒屋そして肉屋を営む敬虔なカトリックの家の長男として誕生した。6歳で小学校校長にヴァイオリンの手解きを受けメキメキと上達し、8歳で父の経営する宿屋や教会で演奏するようになった。父のタフランチシェクはツイッターという小さな弦楽器を演奏する人物であったが、息子のドヴォジャークが音楽の道に進むのを反対し家業である肉屋を継がせるため小学校を中退させ、肉屋の修行に出させる決断を下したのである。
当時肉屋を営むためには資格を取らなければならずそのために修行に出ていたのであるが、その資格取得にはドイツ語を習得をしなければならないというハードルがあった。そこで彼がドイツ語を教えてもらっていたのがその専門学校の校長のアントニン・リーマンである。ところがそのリーマンは教会のオルガニストや楽団の指揮者を務め教会音楽を作曲するほどの人物であった。そんなリーマンがドヴォジャークを見逃すはずがない。そこからドヴォジャークはすでに一定の演奏量を身につけていたヴァイオリンのみならずヴィオラ、オルガンの演奏に加え音楽理論の基礎である和声楽をリーマンから手解きを受けたのである。肉屋にするために通わせた専門的学校で音楽の手解きを受けているとは父は想像だにしなかったであろう。
しかし実家の経済状態が悪化し両親は彼を帰郷させ家業を継がせようとした。そこで待ったをかけたのが恩師のリーマンとトランペット奏者の叔父であった。恩師リーマンの説得とドヴォジャークの学費を叔父が肩代わりすることで父を説得し、彼は晴れてオルガン学校へと進学することとなった。そして貧しい生活の中で彼を助ける人物がもう一人登場する。同じオルガン学校の友人で裕福な家庭のカレル・ベントルである。ドヴォジャークはカレルの好意でオルガンの練習と楽譜まで貸してもらえた。困った時に必ず彼を音楽の世界へと導く救いの手が入っていたのである。つまり彼は音楽世界へ進むべくして導かれていった。
今回はドヴォジャークの人生を前半部分と後半部分にフォーカスして現代の子供達に活かせる教育的話を進めるので彼の人生を高速でスキップして彼のアメリカ進出で得たものについて考える。その前に彼の趣味について話をしなければならない。彼は無類の鉄道ファンである。毎朝の散歩時には欠かさず駅に行き蒸気機関車を眺め、作曲に行き詰まると駅に通い気分転換を図り、列車の時刻表や機関車の型番号やスペック、そして運転士の名前まで全て覚えていたそうである。そして極め付けが蒸気機関車の異常な音を聞きつけ事故を未然に防いだと言われ音楽家特有の耳の良さが発揮されたエピソードも残されている。
鉄道好きな彼がアメリカに渡りアメリカの鉄道の音を当てはめて作曲したのが『交響曲第9番新世界より第4楽章』である。誰もが聞いたことのあるこの曲である。彼は興奮し「チェコの鉄道とは音が全く違う。アメリカの鉄道はレールの幅も長さも違うから・・・」などと語ったそうだ。蒸気機関車の走り出しの重いから始まり徐々に速度を上げ加速していく様子を表現しているこの作品は彼のパンチの効いた重厚な音により当時のアメリカの絶大なる発展とその勢いと力強さも感じることができる。
冒頭に彼の強みは美しいメロディラインを描く才能に恵まれていた人物として評価されていると記したが、彼の作品が現代でも色鮮やかにそして日本人に馴染みやすく哀愁漂う作品を残せたのには理由がある。
ます理由の一つ目が才能に優れていたのはいうまでもないが、自己のアイデンティティが確立できていたことである。当時のチェコは長きに渡りオーストリアのハプスブルグ家の支配を受け自国の言語はもちろん文化も全て自分たちの手で切り開くことが許されていなかったが、ドヴォジャークが生きていた時代はその長い支配を終わらせようと祖国愛に燃えていた。それが彼の作曲へのエネルギーになったことである。子供達はやはり常に自分自身のアイデンティティはどこにあるのかを確認させる必要がある。つまり家族の愛を感じ郷土を愛し自分の立ち位置を明確にすることが必要なのだ。
そして2つ目が今回親御さんには心に刻んでほしいことである。子供達が人生を歩むとき好きなことや得意なことを持たせるべきである。そして裾野の広い経験値を持たせ多くの知識をも備えておくと一つの道を極めるにあたっても多くの叡智を生み出すことができる。つまり同じ道を歩む人々の中にいてもその子供にしか表現できないその子なりの輝きを持たせることで唯一無二の存在になれるということである。これはとある医師から聞いた話であるが、入院して気落ちしている患者さんが音楽家であるというバックグラウンドを知った上で回診時に作曲家の話をすると日に日に元気になった話や乗馬経営者の患者さんに自らも乗馬していた話をすると無口だった人が饒舌になり病気と真摯に向き合うようになった、食事も作る気がしないと言っていた患者さんが医師に教えようとレシピを書いて診察時に持ってくるようになり表情が明るくなったなど、相手に合わせることができる選択肢を幼い頃から育てていけば人と人が心を開いて良い関係性を築き保つことができる土台を作り上げることができるのだ。
それではまとめに入る。
つまりドヴォジャークのように音楽家が音楽のセンスだけを磨くのは当然のことであり、それだけでは大成しないのが伝統のある世界である。しかし音楽以外の好きな鉄道を見つけたからこそあの『交響曲第9番新世界』が誕生したのである。
自分自身の歩む道だけのことを学んでいるよりもそれと同等に他のことを学んでおく、極めておく、体験や経験を積み上げておくことで自分自身の選択した人生に豊かさを付加し幅を広げ自分自身の個性となるのだ。そうして唯一無二のものが構築され、唯一無二の存在になるということである。
これからの子供達はありとあらゆる総合力というものが求められる。これまでの人類がやり尽くしてきた道が数多にある以上、その隙間をついて自分にしかできないことを見つけしていかなければならないのだ。だからこそ一つのことに集中して極めることは当然で、その道に深みを出すためにそれ以外のことで夢中になれること好きなことを持たなければならない。今の子供達は本当に大変な時代に生まれてきたと先ずは親が自覚しなければならないのかも知れぬ。
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