偉人『ジョゼフ・ピューリッツァー』

ジョゼフ・ピューリッツァーその名前を知らずともピューリッツァー賞というワードを耳にしたことはあるのではないだろうか。このピューリッツァー賞はアメリカのジャーナリズムで最も権威のある賞で受賞はアメリカに関わるものとされている。しかし過去に3人の日本人カメラマンがベトナム戦争や日本における政治家の衝撃的な写真をアメリカの刊行物掲載をし評価され受賞している。一見ジャーナリズムのみに限っているようでもあるが実は文学・戯曲・音楽も対象にしており、スカーレットオハラが主人公の「風と共に去りぬ」の原作受賞もあれば、8歳の少年がヘロイン中毒になっている捏造記事が受賞したことさえある大変興味深い賞なのだ。このピューリッツァー賞はジョゼフ・ピューリッツァーの遺言で遺産がコロンビア大学に寄付され、大学内に報道の質を高めるためのジャーナリズム大学院が設立され彼の死後1917年に第1回ピューリッツァー賞が授与された。今回はこのジョゼフ・ピューリッツァーを取り上げる。

ジョセフ・ピューリッツァーは1847年4月10日ハンガリーのマコーでユダヤ系の裕福な商家に生まれる。父は子供達にドイツ語やフランス語を習わせるなどかなり教育熱心であったが、幼少期に父を亡くし家族によって事業が破産すると一気に家庭の経済状況が悪化した。そして彼は自ら生計を立てようとヨーロッパの軍隊に入隊しようとするもフランス・イギリス・オーストリアの軍隊に断られ、ドイツで募集していたアメリカ軍隊に入隊することができ17歳でアメリカに渡り南北戦争の北軍の騎兵隊として従軍する。幸いなことに彼が従軍すると南北戦争はすぐに終結しアメリカに来たものの英語がほとんど話せず、ドイツ語に堪能だったジョゼフ・ピューリッツァーはドイツ移民が多いセントルイスに移り住むこととなった。

戦後はアメリカでの定住を決意し移民として生活するも英語が得意ではないため仕事が続かず、たとえ職についても食事さえまともに取れない環境に嫌気がさし2日で仕事を辞めたり、やっとウェイター職についても常連客に粗相をしてしまいクビになるというにっちもさっちも行かない状況に追い込まれたのである。ドイツ移民が多いセントルイスに辿り着き堪能なドイツ語を駆使して生活するも仕事がどれも続かず、この経験を受け入れ言葉の壁を克服すべく図書館へ入り浸り本を貪るように読み漁り英語を克服した努力の人物である。

ここで言葉が通じないということを考えてみよう。

生きるために働かなくてはならない10代の少年が異国の地に来て相手が何を言っているのかわからない、そして自分自身が伝えたいことを伝えることができない。最初にくる感情が『とにかくもどかしくて仕方がない』という連続の日々であっただろう。そしてもどかしいを通りすぎると次に何が来るのかといえば、伝えたいことが伝えられない理解したいが理解できない「だから悔しい」と言う感情が生まれてくるはずである。留学経験のある人ならお分かりだろうが外国語はテキスト上では理解していてもその日常の中に入ると会話のスピードに耳が追いついていかない状況やその土地の訛りやテキストでは学習していないニュアンス的なことなどが次々と押し寄せてくる。その言葉を理解しなければ生活できない事に追われる日々になるのだ。ジョゼフ・ピューリッツァーもおそらく苦い景観を多くしたに違いない。「ならば学んで習得してやるぞ」と決断に至ったのではないだろうか。だからこそ彼が社会正義を訴えることや政治の腐敗をセンセーショナルな形で報道してきたのであろう。つまり彼は英語を理解した上で報道という職業に就き、やがて言葉は通じるが話が通じないという奇妙で滑稽で恐ろしく時に許すことができないことに遭遇し報道の質を上げなければならないと言う思いに駆られたとのであろう。新聞社として真実をどのように報道するかと言うことを常に考え、報道の力を信じ民主主義を守ろうとした人物であったと評価されている。彼が無職から図書館に入り浸り英語を習得するために本を貪り毒素に明け暮れたという一つのことに没頭すると言うのは、や幼少期の父が大切にしていたユダヤ人としての学びを重視する価値観で教育を施したことにあるだろう。そして彼が封土王の道に進んだのはドイツ語をドイツ語新聞社ヴェストリヒェ・ポストで働き始めたことにあると同時に彼の言語は彼をシェークスピアと呼ぶくらいの才能があったからだ。

その後時は流れジョゼフ・ピューリッツァーは『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』や『ニューヨーク・ワールド』を買収した。読者を増やすために大胆な見出しやイラスト、大衆向けの話題である犯罪、スキャンダル、スポーツなどを多用し、買収した当時の読者数が15,000部から600,000部に劇的に増やしたと言われ、非凡なる才能で国内の最大新聞社にしたのである。移民としてハンガリーから渡ってきた10代後半の少年がアメリカを代表する新聞王となり、晩年は視力をほぼ失い盲目になりながらも引退後も編集方針に携わり続けた。報道の質の向上とジャーナリズム教育の必要性を唱え遺産でコロンビア大学にジャーナリズム大学院を設立し、1911年10月29日:アメリカ・サウスカロライナ州で64歳で死去した。彼の死後彼の意思を受け継いで「ピューリッツァー賞」がジャーナリズムと文学の最高の栄誉として存在している。

ジョゼフ・ピューリッツァーから学ぶこととすればやはり逆境からどのように立ち上がるかと言うことではないだろうか。今週の提案記事のSDGs『貧困をなくそう』を彼に当てはめるとするならば、貧しさの中で立ち上がることはその人物の強い意志にある。このままではいけないどうにかしなければならない、ではどのようにすべきだろうかと考える、そして行動を起こしてみる。意識し思考し行動することそれこそが如何なる困難や苦しみに立ち向かい脱却する術である。







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