偉人『マルコ・ポーロ』

「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人也。船の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老をむかうるものは、日々旅にして、旅を栖とす。・・・表八句を庵の柱に掛けおく。」奥の細道の序文から原文までを子供と共に暗唱していた折、内容を理解した子供がマルコ・ポーロの話題を持ち出した。それ以来私の中では奥の細道=マルコ・ポーロになり、東方見聞録=奥の細道といささか奇妙な連想ゲームが始まるのである。24年というアジアの国を周り多くのことを得たであろうマルコポーロの人生はまさに奥の細道に通ずるものであると思うのだ。そして彼が亡くして母を亡くしその記憶も朧げな中でどのような教育を施されたのかを紐解きながら今回の記事を記す。

話がいきなり飛んでしまうが今週の提案記事『粘り強さを引き出すGRIT』の記事を月曜に記し、その記事にちなんだ偉人として見慣れない異国の地で多くのことを体験したであろう少年マルコ・ポーロの精神の源泉がどこにあるのかを考えてみることとする。

マルコ・ポーロといえば東方見聞録を口述筆記させた人物であり、探検家や旅行家という見方をされることが多いが、実は彼の誕生年月日や誕生地は不明であり、彼が本当に旅をしていたかを疑う記述もちらほらと見かける。しかしそれだけではなく彼の存在自体が否定されていることもあるのだ。歴史は不透明なことも多く事実が明白になることも少ない。とはいえ彼が口述した東方見聞録にはある程度の真実も掲載されていることから私は彼が旅をしていたと信じこの記事を発信する。

マルコ・ポーロの推測される生まれ年は1254年、誕生地はヴェネチュア共和国ではなかったかと言われている。父ニッコロ・ポーロは中東貿易を生業にする交易商人として財を成しつつあった。交易とは価値のある品物を交換する取引で現地に行って物を売り買いし儲ける商売のことで、父ニッコロと叔父のマテオー・ポーロはトルコのコンスタンティノープルへと商売に行っていたものの、情勢が怪しくなりまた戦争が始まりこれでは商売が上手くいかず危険であり、商売が成功しないまま国へ帰ることはできないとして東のモンゴル帝国へと商売の地を変えたのである。父がトルコへ旅立ってからマルコは生まれ、5歳の時に母も亡くし彼は叔父と叔母によって育てられたのである。この叔父と叔母によってマルコはしっかりとした教育を受け又商家らしく外貨や物の価値や評価、取扱などの商い関することも教わったとされている。おそらくポーロ家は一般的な交易商人が塩や毛皮、奴隷などをの売買をしていたのに対して、宝石や金、香辛料などのかなり高価なものを扱うなど商売人としての才覚は高くかなり裕福な交易商人一家であったようで商売に対する意識が高かったと考える。そうなれば甥であっても賢い商売人に育てようとするのも当然至極のことである。父と叔父はフビライ・ハーンに気に入られ11年滞在後、ローマ教皇宛ての信書を手に帰郷し父は息子のマルコの存在を初めて知る。マルコ15歳であった。

帰郷するとローマ教皇のクレメンス4世が逝去し新たなローマ教皇が選出されない2年間に痺れを切らし、これではまずいと父は息子のマルコを伴ってフビライ・ハーンの元へ戻る旅に出る。17歳という子供でもなく大人でもない少年にとってユーラシア大陸を横断するのは体力的にも気力的にも厳しいものであったであろう。私もモンゴルの地を訪れた経験があるがその広さに圧倒されるだけでなく、雄大な緑覆われる土地と乾いた土地が共存するギャップに驚きもし、独特の文化に触れた時には神のゴワつきや口を開けると飛び込んでくる大地の砂埃をも忘れるほど興奮したのを覚えている。そう考えると十代半ばの少年が徒歩とラクダ移動の過酷な陸路を旅し続けるのは艱難辛苦に近いようなものではなかっただろうか。しかし男の子というものはDNAに組み込まれているのではないかというくらい未知の世界に挑戦に対しようとする意欲や新しい世界やものに対する恐れを感じず行動する冒険心が宿っている場合が多い。実はマルコが経験したのはいくつもの厳しさと美しい自然の中で遭遇した出来事から旅をすることに向き合う指針を獲得している。ある時砂漠のど真ん中に突如として現れた神秘的な光にマルコは度肝を抜かれたという。そして砂漠の中のオアシスに立ち寄ると身分の高い人物が、『この光はあなたたちの心のうちにある絆の証であり、勇気と希望を与えるものである』と説き聞かせた。するとマルコは痛く感銘を受け24年の長き渡る異国での生活の指針にしたという。実はマルコは過酷な旅の疲れでパミール高原付近で大病を患い1年余り病床に身伏している。その時にもこの言葉を頼りに過ごし、回復が遅々と進まない中にありながらもシルクロードのハードな旅を3年余りかけ、やっとの思いでフビライ・ハーンの統治する上都へ入っている。やがてフビライ・ハーンの元で徐々に体力を回復し健康を取り戻したマルコはその聡明さを発揮し、フビライ・ハーンに気に入られ中国国内の特使として派遣されている。しかしマルコはよわい60歳を過ぎたフビライ・ハーンの統制に不安を感じ帰国を望んだが、彼を気に入ったフビライは手放してはくれなかったのである。

思春期に祖国を離れ異国の様々なものを見聞し経験したマルコはスポンジのように多くのことを吸収したのは間違いない。私がこれまでに教えた生徒の中にも冒険心が強い子供は学び続けることを苦とせず、新しいスキルを取得させようとすれば私が目を見張るほどの力を獲得していた。その特徴は失敗を恐れずに挑戦し、たとえ問題や失敗があったにせよそれらを解決しようと思考しあの手この手で学びを深めていくのである。と同時に自分自身の思い描くビジョンも持っており想像力発想力もまたピカイチであった。私が側に居て感じたのは親御さんの姿勢も肝が据わっていたことである。子供達が進もうとする歩みを止めない、そして安全でなくても大きな事故につながらない限り多少の怪我は見て見ぬ振りであった。つまり親ができることは環境を与え子供自身が自ら興味を追求できる自由を与えていたのである。おそらくマルコの父はそこまで考えていたかはわからないが、年数をかけて自らの足で大陸横断をすることが当然でその厳しい環境の中でマルコを育てていたというより同志になって厳しさを乗り越えていたに違いない。現代の子育てにおいてもこのことは重要ではないだろうか。

マルコ・ポーロは語っている。

「旅は感じることであり、見ること、考えること、学ぶことの素晴らしい体験であり、新しい世界を発見し、新しい文化に浸ることで人間は成長するものだ」と。

つまり私達親は安全で快適な環境を提供するだけでは子供は大きく成長しないことを認識し、時にその安全で快適な世界や慣れ親しんだ日々の生活から抜け出し、子供を未知の挑戦に立ち向かわせるべきだと考える。明日はその未知の世界に飛び込んだ生徒さんの記事を予定している。是非そちらも併せて読んでいただきたいものである。

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