偉人『与謝蕪村』

今回取り上げる偉人は与謝蕪村である。多くの人は蕪村が俳句人であるとの認知であろうが、実は画家としての実績もあり絵師として身を立てようとしていた時期がある。蕪村は同じ年の伊藤若冲の『動植綵絵』30幅を見て若冲には敵わないと悟り江戸絵師の道を断念した。それでも蕪村は絵師になることを諦めきれず、次は山水図の南画(水墨画)で身を立てようとするもこれまた天才絵師の池大雅の存在に道を阻まれ山水図も諦めた。しかしどうしても絵の世界で身を立てたい気持ちが増すばかりで悩みに悩み自分自身の才能の無さにもがき苦しんだ。この時点で蕪村は俳人の道ではなく絵師としての道を模索していたのである。つまり蕪村は自身の俳句の凄さに気付かず絵師としての道を求めていたのである。そして絵師としての才能のレベルを知りながらも絵を求める思いは熱くどうにか道を諦めずにすむ術はないかと考え始めたのである。

さて、子供達には諦めずに努力を重ねれば夢は叶う、何でも手にする可能性が残っていると教えているが人生には努力に努力を重ねてもどうしても手にすることができないものがあるという現実があることを教えてはいない。しかし成長とともに子供たちも自分自身の才能について気づく時が必ず訪れる。その時にどう向き合うのかを教える心構えをしておくのも親には必要なことである。おそらく中学受験をする子供たちは否が応でもこのような現実が突きつけられる。特に狭き門と言われる事に挑戦する子供たちはその事に向き合い感情コントロールするかということがその後の人格形成に大きく影響すること間違いない。

ここで親御さんが向き合う覚悟をしておかなければならないのがその狭き門に入れなかった場合である。子供たちの幸せを願い成功を手にすることを望むのが親であるが、受験をさせるのであれば狭き門に入れなかった場合も親の責任として考えて子供の心をどう受け止め新たな道に向かわせるのかを考えておかなければならない。つまり狭き門に入るためには優秀な人材がこぞってその門を潜ろうと必死になるが、その狭き門に入れなかった時にこそ人間が大きく成長できるチャンスがあることに気付かない親であってはならない。つまり入れなかった=失敗した親でいるのであれば受験させてはならない。子供たちの長い人生を考えた時にやり直しが効く年齢の子供にそのような敗北感を与えてどうするということだ。よって成功を手にすることを願いつつも万が一に備えて前向きに結果を受け止める準備をするべきである。

しかし長い人生に於いては相当の努力を課してもその道を掴むことができない人生の転換期がある。しかし努力を重ねてこもまでしても敵わない事には必ず理由があると考える。なぜならばやはり偉人の人生を紐解いていくと失敗に思われることであっても実は新たな道に進むための試練だったということが多く隠されているからだ。つまり偉人の人生に存在することは現代の我々にも起こりうることであり、その当事者になったときにどうするか、結果をどう受け止め考えるか、どう気持ちを切り替えるか、そして自分自身の強みは何かを考え再出発ができるかどうかである。親の役目というものは子供の長い人生を考えた時に目先のことにとらわれず、知恵を叡智に変えて子供に教え導くことができるかである。

話を蕪村に戻そう。蕪村は絵師として自分より才能のある人物の存在を知りそれぞれのジャンルの絵師の道を諦めたが、絵を描くということを諦めるという事はせず描き続けることは継続した。その上でどうするべきかを考え自分自身が得意とする俳句というものを絵にする俳画の道があることに気づいたのである。つまり確立された江戸絵や山水図で成功する扉は開いていないが、自分自身の得意とする絵と俳句で新たな扉を作るに至ったのである。蕪村の凄さは自分自身の極めたい道が閉ざされていると理解した時ものの見方を変えて自分自身の力で新たな境地を開いたことにある。

ここで季節がら蕪村のひな祭りの句を紹介しておこう。

「雛祭る 都はづれや 桃の月」

解釈はこうである。「雛人形が飾られている。このような都の外れでもひな祭りが行われているのだなぁ、桃の節句の月である。」

なんともまぁ風情のある俳句であろうか。蕪村には一人娘がおり娘のことを思いながら詠んだ句であろうか。上の句と中の句では目の前に映し出されている光景をそのまま詠んでいるのだが、下の句で一気に風情がある美しい描写の世界へと誘ってくれるのが蕪村の凄さであり素敵さである。花鳥風月を多く扱い自然の美しさと季節の移ろいを繊細な感性で掴み取り、人の心情を鋭く捉え人や夢の儚さや哀れ切なさなど豊かに表現し、何より自然と人との心情が交わる美しさが何とも言えず心に響いてくる。18世紀の詩人が持つ感覚に共鳴し感動し味わうことができる感覚を現代人が持つことができれば、自然の美しさを心から愛し環境について考えることもできるであろうし、人の心情を理解し寄り添い共に歩むことができ、真実は何かを理解することもでき時に厳しい言葉を投げかけてもそれを前向きに捉える人生を送ることができるのではないだろうか。現代人にそのようなことを考えさせることができるそれこそが蕪村の魅力なのだと私は考える。

1716年蕪村は摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)の谷口家という家に生まれた、蕪村の特徴である生命の儚さを読んだ作品には身近な人を多く亡くした背景があり、貧困と病にも苛まれながらも生きるとは何か、死とは何か、苦難の中から自分自身が見出せるものは何かを常に考え作品を残している。蕪村もまた感動的なエピソードを持つ偉人らと同じように自分自身の手ではどうにも解決できないような事に向き合う時のしなやかな強さを持っている。単なる心情の深さという言葉で片付けるには大変惜しいほどの深いところのでの精神性が彼には宿っているのではないだろうか。だからこそ時代が劇的に変わっても蕪村の淡く美しい自然と一体化する人間の心情が現代人の心を揺さぶるのであろう。

私の結論は人生が順風満帆に進んでいる場合には鋼のような強さがあるが、紆余曲折、波乱万丈など起伏のある人生を味わい自分自身の人生とは何かを考えた人物の精神性の高さはこのように鍛えられていくのか感じている。これからの時代を担う子供たちに伝えることは、蕪村のように大きな壁が聳り立つことがあったにせよすぐに諦めるのではなく、好きなことであればやり続け自分にしかできない道を模索してはどうかということである。自ら進もうとする道に到底敵わないという人物が目の前に出現したらその人物から得られるものは何かを強かに学び取ればいい、そして自分にしかできない道を模索すればいい。すると蕪村のように自らなすべき道がはたと見えてきたり気付けるであろう。

蕪村は医師を目指していたが俳句に魅了され俳句を学ぶ人生を送り、絵画は好きがこうじて我流で極めたのである。蕪村はこう考えた。「俳句と絵の両方の道に足を突っ込んだからこそ感じることができる苦しみが今身を以て感じているのだ。もし両方の道に進んでいなければ何も感じることができなかった。自分のできることを表現しよう。」

もがき苦しみながら不平不満を連ねるのではなく前向きに捉えた人生を送ったのだ。このような考え方ができるように育つということは蕪村の中に多くを占めているのが優しさであり思考の深さであろう。つまり人間性である。これからの子供達には蕪村の俳画や俳句などの作品で彼の人柄を多く読み取り、自身の人生のここぞという時の糧になる作品を見つけて欲しいと考える。

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