偉人『斎藤輝子』

とある番組でバイオリニストの高嶋ちさ子氏は職業は何かと問われ即座に「100%母親業である。」と答えていた。その発言とは対照的なのが今回取り上げる斎藤輝子である。これまでに何度もアナウンスしているが斎藤輝子は短歌人の斎藤茂吉の妻であり、精神科医でエッセイストの斎藤茂太とこれまた精神科医であり作家の北杜夫の母親である。

どのような人物なのか、結論から言うとお嬢様として育った輝子は家事もせず、子育ては乳母任せ、夫とは育った環境が大きく異なり不仲、言いたいことはキッパリと物申す、お嬢様育ちではあるが明治生まれの気骨な人物で、自らやりたいことはエネルギッシュにやってのける行動力のある人物である。家事子育てをせず別名ダンスホール事件と呼ばれる不良華族事件の渦中の人物となり、事件が引き金となり夫茂吉との関係が悪化長い別居生活に入る。このような破天荒な母としての輝子ではあったが子供達や孫にも愛された人物であり、次男の北杜夫は母の死後母の部屋に行くと今にも旅行に出掛けられそうな母の荷物を見て初めて涙が込み上げ「私の幸せは母輝子と文学者であり歌人の父斎藤茂吉を尊敬できたことである」と語っている。そして輝子は長男茂太家族と同居し、エッセイストであり孫の斎藤由香氏にも愛された人物である。第三者から彼女の生き方を見ると様々な批判批評好き嫌いが出てくる人物ではあるが、実は家族からは母らしからぬ妻らしからぬ行動を鑑みても一目置かれ愛されているのである。今回はその理由がどこにあるのかを考えてみよう。

1895年12月11日医師で政治家の父斎藤紀一の次女として浅草で誕生。生家はローマ式建築の大病院である青山脳病院(精神科)を開院し、敷地4500坪を有する生粋のお嬢様として斎藤輝子は育つ。輝子は姉が幼くして亡くなったため病院と家の存続のために1歳ですでに婿探しが始まり、9歳で茂吉と婚約、10歳で婿養子の候補として茂吉が養子縁組で斎藤家の一員となった。つまり小学校4年生で将来の夫となる人物を自分自身の意思とは関係なく親により決められたのである。当時家を中心として成り立つ古き日本社会の形が如実に現れ、実際の夫婦生活は価値観があまりにも違いすぎたために夫婦関係は破綻していたが、幼い頃はそれなりに茂吉と輝子は仲がよかったという。

ではどこでボタンのかけ違いが生じてきたのかそれは大変興味深いことである。大病院のお嬢様として育てられ学習院女子部を卒業した輝子にとって、子供の時には見えなかった生まれや育ち家柄立ち振る舞いなどが似通っている友人知人とは異なる茂吉の貧しい家柄や育ちなどが気になり出したのかもしれない。学習院で学んだ高貴な立ち振る舞いを生涯貫き通した輝子は茂吉の前では毒舌極まりない言葉を投げ、時には舌打ちをして茂吉と同じ空気も吸いたくないと捨て台詞を吐いたこともあったという。しかし当時の学習院女子部では良妻賢母の精神が教えられており、その教育とは程遠いエネルギッシュで好奇心旺盛な輝子の性格と家を継ぐため医師になることを子供の頃から課され人を愛することも許されず、婿養子になったものの輝子から煙たがられる扱いを受けた茂吉。価値観のずれは双方の努力や寛容さときに見て見ぬ振りによってある程度はカバーできるような気もするが、輝子と茂吉の価値観のずれというものは大きすぎたと同時に互いの個性の強さのぶつかり合いによって折り合いがつくというキャパがすでに崩壊していたのかもしれない。

しかし輝子の凄さは同じ空気を吸うのも嫌だ、茂吉の体臭を嫌い「おお臭い」と言っていて部屋を出ていくほどの関係性であったが、茂吉が病を患った晩年を献身的に付き添ったという。生理的に受け付けないような発言をしていながらなぜ晩年献身的に付き添うことができたのか。輝子は父紀一から「茂吉は変わっているがきっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」とてるこを諭していたという。その父の言葉を通りに最後は形を納めようとしたのか、はたまた明治生まれの女性らしく自分自身の信念を曲げない気骨さをもってして夫の最後くらい看取るのだと決めたのか、はたまた留学中の茂吉を追いかけて行った若かりし頃を思い出したのかその真意を聞くことはできないが、自由に周りの目を気にしない行動を続けてきた輝子は世間体や愛人房子に対する複雑な感情などがあっての行動とは思えぬ。おそらく自発的に斎藤家の人間として斎藤家を存続させることに貢献した茂吉に対してこれだけはやっておかねばなるまいというような感情があったのではないだろうか。身勝手だけの女性であれば子供達からそっぽをむかれ孤独な晩年を送っていたかもしれない。輝子らしさという見方で家族の思いに決着がつく人物だったのではないだろうか。

お嬢様育ちと言っても慎ましやかに清らかで大人いい楚々としたお嬢様ではなく、好奇心旺盛でいかなることも自分の手で足で実行してみないと気が済まず、人になんと言われようとも自分自身をしっかりと持ち強い意志で猪突猛進に行動した人物であろう。そう考えなかれば89歳で死を迎えるまでに世界108カ国を旅することはなかったであろう。

現代に於いても輝子や茂吉のように家や家業を継承するための結婚はある。しかし多くの人がこれまでの恋愛や今流行りのマッチングアプリ、お見合いなどで相手を選んで共に歩む伴侶をランで行くのであろうが、私は相手を選ぶにあたり幼い頃から父に言われていたことを自分の物差しとして主人を選んだわけである。そして主人が多くの人と出会ってきた経験から子供の結婚相手に関する指針というものがまとめられたので記しておく。

1、裏表のない素直な人である

2、地位や名誉などに関係なく分け隔てなく人を平等に見て接している人であるか

3、人のために動くことができるフットワークの軽い人かどうか

4、思いやりが深い人であるか

5、困難な時にこそ動揺せずに冷静な判断ができる人であるか

この5つを全て持ち合わせる人は少ないかもしれないが、その人の中に存在する『徳』というものを見て伴侶を見つけて欲しいものである。輝子と茂吉のボタンのかけ違いというものは相手の人となりを互いが深く見ることができたいたら互いに歩み寄ることができ互いを理解することがより行えたのではないだろうか。価値観や育ちが違いすぎてもその人となりをお互いが受け入れることで幸せの感じ方を共有することができるのではないか、私はそう思うのである。

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