偉人『ワンガリー・マータイ』

歴史上強い女性達がいて彼女らの地道で汗と血と涙が滲むような活動によって現代の私達女性が豊かな生活や自由に生きる権利がもたらされたと言ってもいいだろう。日本でも津田梅子(関係記事はこちら)や平塚らいちょう、市川房枝、先日取り上げた赤松良子(関係記事はこちら)など多くの女性達はが立場の弱い女性の権利を獲得し女性の地位向上を目指した活動をしてきた。そして今回取り上げるワンガリー・マータイはケニアの環境保護活動家としてケニアのみならずアフリカ大陸そして世界的な活躍を見せた女性でもある。彼女は貧しい農家の娘で普通なら農家の働き手として、そして子供を産むことを強要され結婚をさせられていたかも知れぬアフリカの女性としての生きていたのかも知れないが、彼女の勉学心と向学心が実を結びケニア代表としてアメリカ留学へと道が開けたのである。

今回はワンガリー・マータイの人生を通して教育がその個人の可能性を広げ、社会を大きく変えることができたことに焦点を当て彼女の人生を分析する。

1977年ワンガリー・マータイが非政府組織(NGO)として立ち上げた植林活動は7本の木を植える小さな活動からスタートした。環境を守るために自国ケニアに留まらずアフリカ大陸全土で5100万本もの植林を果たし、また女性の権利と地位向上と自立、生活の安定、平和活動を評価されアフリカの女性初として2004年ノーベル平和賞を受賞した。

そして私たち日本人が忘れてはならない「勿体無い」という日本的考え方に感銘を受けその考えをグリーンベルト運動に取り入れ『MOTTAINAIチーム』を設置し、ケニアで問題となっているプラスチック製ゴミ袋の削減や日本との植林事業も行った。日本の勿体無いに彼女がどのように心を揺さぶられ活動に取り入れたのかについては次回の2025年5月30日に記事を予定している。是非こちらも読んでいただき子供達にその勿体無いの種を蒔いていただきたいと考える。

ワンガリは1940年4月1日ケニア中部のイヒデの貧しい農家の娘(6人兄弟)として誕生。多くのアフリカ女性達が教育を受けられない状況にありワンガリも同様であった。しかし兄がワンガリを学校に行かせるように両親を説得し1948年8歳で小学校へ入学した。ワンガリは畑の仕事、水汲み、薪集め、家畜の世話、料理、洗濯と幼い頃から貧しい家の子供としての仕事は多かったが、学校に行き学ぶことの楽しみを知る喜びに触れ持ち前の彼女の強い精神と頑張りによって1956年16歳で高校をトップの成績で卒業し、1960年に政府留学生としてアメリカへ留学し大学では生物学を専攻した。アメリカでの生活はシスターとともに生物学実験を行い、寮への帰宅時には図書館から本を抱えて帰ってくる彼女の姿を友人らは強く印象に残っているという。その友人の中にヒラリー・クリントンがおりワンガリのことを「友であった事を誇りに思う」と彼女の訃報を受けて語っている。ワンガリは1971年アメリカピッツバーグ大学で東部・中部のアフリカ女性で初の修士号を得た。その後ドイツ留学を経て1977年25歳でケニアに帰国後ナイロビ大学の獣医学部の助教授となる。しかし帰国し彼女が見たものは国と産業の発展と引き換えに失われた自然破壊であった。

1963年ワンガリ23歳ケニアがイギリスから独立。25歳でケニアに帰国後ナイロビ大学の獣医学部の助教授となった彼女は、母国が先進国に追いつけとばかりに森林を農地に変えて輸出用農作物を育てる産業に目を向け過ぎて環境破壊が起こっていたことになんとかしなければならないと強く決心した。生物学を学んだワンガリにはこのままでは大変なことが起きると理解できていたのである。雨が降れば土砂崩れが起き土地が流され痩せた土地が残り、そこに植物を植えても育たず、森が水を蓄えることができず水に枯渇し病気が蔓延し食べることさえできなくなる。つまり農業がうまく行かないだけでなく人々の命も危険にさらされるということを生物学を学んだ彼女には容易に理解できることであったのだ。しかし政府によって新しい森林をまた伐採し農地に変える悪循環が繰り返された。ワンガリの危惧していたことが的中するも改善には至らず、ワンガリは業を煮やしグリーンベルト運動に乗り出したのである。彼女はアメリカで学んだ知識を使い母国が進むべき道筋を明らかにしたのだ。

ワンガリの起こしたグーリーンベルト運動は単なる植林ではなく、男性社会の色が濃く残る時代ケニアで社会に出ることのない女性達に苗木を植えてもらうことで収入を与え、活動がうまくいくことで自分たち女性でも何かできるという気持ちをアフリカの女性達に芽生えさせた。つまり国土に緑の復活をもたらし、虐げられていたアフリカ大陸の女性達の地位向上と学びへの意識改革を育てたと言っても良い。ワンガリの活動はケニア政府の政策と相反しているため暗殺リストに入り何度も妨害を受け圧力を掛けられた。しかし彼女の強みは留学時に学んだ経験や語学を通して外国への協力を求め戦い続けたことにある。そして2002年に国会議員となり、翌2003年に環境副大臣に任命された。2004年に環境や人権に対する長年の活動と功績、環境分野での活動が認められアフリカ女性として初のノーベル平和賞を受賞したのである。つまり現場で働き何が起こっているのか事実を把握し、政策の面でもしっかり国の行末を見て行動を起こし、自然環境の保護と人間が生きていく調和の大切さを世界へ発信した今の時代には本当に必要な人材であった。

ワンガリー・マータイ、彼女に教育というチャンスが訪れていなければ、アフリカ大陸はもっと深刻な自然破壊、疫病、貧困、食糧難、男尊女卑を引き起こし、外国の目がアフリカ大陸へと注がれることはなかったであろう。まだまだあらゆる点で世界的に問題が解決されてはいないが彼女の起こしたグリーンベルト運動は引き継がれており、そして日本の『もったいない』という考え方をリスペクトした勿体無いキャンペーン活動も継続中である。ワンガリは亡くなるまでそのもったいないという言葉を合言葉に活動し、言葉の奥深くに存在する尊敬と感謝の意味を理解し、2011年の東日本震災時に日本と日本人に向けての励ましのメッセージを出している。震災にあった人々に寄り添い励まし日本人として奮い立たせるそのメッセージには、彼女の思いやりや労りもあるが日本人がいかに精神性高き民族であるかを再確認させてくれるのである。ワンガリー・マータイの根底にあるのは類稀なる学びたいという熱意と向学心、そして彼女の精神の支柱となっている『ハチドリの一雫』という考え方があるが、何よりも何が本物であるかを見向くことができる千里眼と行動力が彼女の最大の武器であったのだろう。このワンガリ・マータイのような力を持つ子供達が沖縄から出てくることを願い続け、そのためにはどうすれば良いのかを子供達一人一人を見ながら接している。できる子供にはこれでもかこれでもかと負荷をかけて強さを身につけてほしいと願い、成長過程の子供達にはどう心を強くもち事にあたらせるべきか試行錯誤の毎日である。昨今は成功体験を多く積み上げた子供も多く悔しい思いをした経験が少ないためとにかく打たれ弱い。最高の環境を与えてもらい親がサポートをすることでの成功体験は悪くはないが、本当に子供のためになっているかといえば懐疑的であり、その成功体験の感動の質が良質かといえばそうでもないような気がしてならないのだ。

ワンガリー・マータイは子供の頃から学びたいと思いつつも親に許されず、兄の説得により奇跡的に学校に通わせてもらった人物であり、家に帰ってからも家庭の手伝いを余儀なくされた環境で学べる時間が限られた中で小中高校と優秀な成績を保ち続けたハングリー精神のある人物だ。しかし現代、生活に困窮している一部の日本の子供達を除いては概ね恵まれた環境にあるためワンガリーのような立場にはないにせよ、どこかで負荷をかけて乗り越えさせる力は必要ではないかと考える。私に厳しいことを伝えられる親御さんに心に留めてほしいのだが、お子さんの改善点は親子でしっかりと向き合うことで次のステージに上がることができる。それを期待しているからこそ指摘が入るのだ。そのことをお子さんに伝えて『塩田先生をあっと言わせてみせよう』とキャンペーンをしても良いのではないだろうか。人の驚く顔が見たいその一心で努力したら子供は前向きに取り組むことができるだろう。私もそれなりに驚いて強烈な刺激を与えようではないか。

ワンガリー・マータイはアメリカでの学びは驚きの連続であったと語っている。驚きは人の心に深く刻まれそれが良質なものであればワンガリーのように教育を通して自分の可能性を広げ、社会的世界的に活躍することも夢ではない。教育というものの重要性を改めて考えてほしいものである。


次回は彼女の精神の支柱となった『もったいない』と『ハチドリの一雫』について記事を配信する。

Baby教室シオ

ほんものの学び。今必要な学び。乳児期から就学期までを総合プロデュースする沖縄初の乳児のためのベビー教室です。