偉人『平塚雷鳥(らいてう)』
平塚雷鳥といえば彼女の発した名言が有名である。
「元始、女性は太陽であった。」
古代に於いて女性はまるで太陽のように輝き自ら光を放つ存在だった。しかし現代では月のように男性の影に隠れ男性の光を受けて輝くしかない。その女性の自発的光の輝きを取り戻さなければならないという強く主張したのが、日本の女性解放運動の先駆者であり、評論家・作家・思想家としても知られる平塚雷鳥である。
女性が受動的な存在とされていた明治・大正時代の価値観に対する明確な反抗心を持っていた平塚雷鳥は、明治から昭和にかけての日本社会の中で女性の権利と自由を求めて闘い抜いた。今回は彼女の幼少期にスポットを当てていく。
これまでに多くの女性と会いその中でも自分自身の信念や理論を持つ反骨精神の強い女性数名に出会ってきた。そのような強い女性を一括りにするのは解せない。なぜなら所構わず自分自身の信念や意見を声高に叫ぶ女性もいれば、意見が異なると知るや否や怪訝な表情を浮かべる女性、思慮深く確りと話を聞き相手を批判もせず自らの信念を述べる女性など十人十色だからである。では平塚雷鳥はどのような女性だったのか・・・彼女は145cmの大変小柄な容姿で声はか細く内向的な女性であったと言われている。私が書籍を通して知り得た雷鳥は内省的で知的な人物出会った。彼女は若いころから文学や哲学に深い関心を持ち、特に個人の内面の自由や精神的自立を重視していた。また個人主義的傾向も強く「自我の確立」や「女性の精神的自立」を強く訴え、周囲の価値観に流されない一面もあったのだ。そして彼女の発するか細く小さな声を発す特徴から静かに思想を重んじ、その思想を言葉によって伝えることに徹していた。彼女の記述には内面を見つめるものも多く、派手な自己主張というよりは思想を重んじてその内容を深く見つめる人物だった。
しかしその反面雷鳥は外向的な側面もあった。例えば雷鳥は当時の社会規範に反して、恋愛や女性の自由について堂々と発言しており不倫相手の森田草平と心中未遂事件を起こし、また当時としては珍しい内縁の夫との間に2人の子供を儲けるなどしている。女性だからこうでなければならぬという時代に恋愛や女性の自由について堂々と発言し行動した点では、非常に勇気と自己主張の強さがあり、内向的というよりは「芯が強くて外に出ていける人」とも言えるのではないだろうか。雷鳥は「青鞜」創刊や、婦人参政権運動、戦後の憲法草案への関与など数多くの公的活動を行っており、内向的な部分を持つだけでは人前に出て意見を述べ行動することはできない。つまり外向的な資質がなければ難しいことである。
つまり平塚雷鳥は「内向的な知性」(内向型の思考)と「外向的な行動力」(社会改革に結びつける行動力)の両方を併せ持った人物と見るべき稀有な人物なのだ。
本名を平塚 明〈はる〉といい、1886年2月10日父は明治政府の高級官吏で、母は徳川御三家の奥医師を務める家庭に生まれ、裕福で女子教育に力を入れいる家庭環境で育ち女学校へ進学し、当時としては非常に進歩的な女子教育を受けることができたのである。卒業後、女子教育や社会問題に関心を持つようになっていた。しかし欧米的な環境で育っていたが父がある時国粋主義に傾倒し良妻賢母をことさら強調する家庭に変貌してしまったのである。よって家庭内で「女の子なのだから」という女性差別的発言に疑問を持つようになる。この疑問こそが雷鳥を日本の女性の権利と自由を求めて活動することを決定させたのだ。その理由を幼少期の4つの視点で紐解いてみよう。
1、なぜを連発する子供であった
親になると子供のなぜ、どうしてにほとほと困ったという経験をお持ちの親御さんならわかるだろうが、1、2歳の「なになに期」が終わると、3歳時期の「なぜなぜ期」が訪れる。物事に関心を持ち始め「知りたい」という気持ちが溢れてくるのがこの時期である。そしてそれを通過するとたくさんのことを不思議に思う4歳以降の「どうして期」が訪れる。
平塚雷鳥もまた幼少期から「なぜ?」と問いかけることが多い子どもだったと伝えられているが、もちろんそうなる以前に「なになに期」を通過しているはずで女子教育を重んじていた難いなのであるから多くのことを子供に伝え教えていたに違いない。そうでなければ「なぜなぜ期」は訪れるはずも無いのだから。
子供の「なぜなぜ期」にはさまざまな側面があり単純に好奇心だけの追求ではなく、コミュニケーションの手段であったり、覚えたばかりのことを反復して理解を定着させるため、或いはもっと噛み砕いてより深く知りたいなど色々な意味が隠れている。そのことを見抜ける親であればそれは多くの親の鏡と言える観察力と判断力の持ち主である。まずはその意味を親が確り受け止めて応えることが重要だ。そこを雷鳥の親は娘が何を欲していたのか見抜けなかったと私は考えている。
2、「おとなの理不尽」に疑問を持ち、反抗心の芽生え
雷鳥は周囲の大人たちが女子に対して「女の子なんだから」と言って行動を制限するのを聞き「なぜ女の子だからダメなの? 男の子だったらいいのはなぜ?」と素直に疑問を持ったという。そしてある時親に「女の子らしくしなさい」と厳しく注意されたことをきっかけに「女の子だからといってなぜこうもしなければならないのか」と憤りを感じ、「社会に対する違和感」や「反抗心」が芽生えたことを自覚したとの地に語っている。
私が想像するに親自身が娘と向き合って話すのを面倒だと感じていたのか、将又なぜ女子の行動に制限をかけるべきなのかを自らの言葉で語れぬほど理解ができていなかったか、或いは娘の反発反抗心を見抜いて力でねじ伏せようとしていたかかのいずれだろう。確りと向き合う親であればそう簡単に子供は反発や反抗心を育てることはないのであるから。
雷鳥は悶々とした思いを抱え自分の考えを表現する手段として文学や文章へと繋げ、幼い頃は素朴な疑問だったものがやがて親からの厳しい諌めにより沸々と反抗心が芽生え後の女性解放運動へと繋がったと私は読んでいる。もし両親が頭ごなしではなく彼女の気持ちに応え「女性らしい」ということがどのようなことなのか説明し、歩み寄っていれば彼女が憤ることもなく反抗心を芽生えさせることはないかったであろう・・・と言いたいとこではあるが、彼女の書籍を読んでいると彼女の持って生まれた潜在的意識が親が真摯に雷鳥と向き合ったとせよ女性解放運動に突き進んでいたであろうと考えている。
3、読書好きな少女
雷鳥は幼い頃から本を読むのが大好きで特に外国文学や詩に強い関心を持ち、家庭にあった書物を読みふけっていたそうである。10代の頃には哲学や海外の女性思想にも強い関心を持ち女性作家や思想家の作品に触れ、そこから得た情報を元に理論的な裏付けを持って行動した。当時としては珍しくフェミニズム的な視点に早くから触れ、知的で自己表現欲が豊かな彼女はエッセイ、小説、評論など幅広いジャンルで自身の考えを明確に発信したのである。また彼女は詩を書くことも幼い頃から好んでおり、雷鳥という名前も「山の上で自由に生きる雷鳥のようにありたい」という思いから名乗るようになったと言われている。なんと詩的発想から着想を得たのであろうと一瞬考えたが、雷鳥の由来は雷鳴轟くときに姿を現す鳥であるから正に女性にとって荒々しい社会に一石を投じるためにその名にしたのかと雷鳥に聞きたいものである。ちょっと待てよ、雷鳥は冬には羽を白に変え雪山に溶け込み、夏は茶色や灰色に羽色を変えて岩場に同化する鳥で環境に適応していることから考えるても、雷鳥という鳥の羽色のことなど考えて名を付けてはいなかったのであろう。
4、家族との関係
父親は厳格で保守的な考えの持ち主であり、母親は教育熱心であったがやはり「女性はこうあるべき」という当時の価値観を持っていた人物だった。大人の理不尽に違和感を覚えていたことのスタートは雷鳥の家庭環境の中で「押しつけられる女の子像」への違和感を強く感じていたことが始まりであった。雷鳥の幼少期のエピソードはこの家庭環境から受けた強い自我・疑問精神・表現欲求の芽生えを示すものばかりで、子どもながらに「女の子だから」という理不尽なルールに疑問を抱き、反抗する気持ちを内に秘めて育ったことが後の思想や行動の原動力になっていたと考える。明治・大正という封建的な社会に於いて男性中心の価値観に激しく異を唱えた信念の強さは人並みはずれていたと考える。
もし平塚雷鳥がいなければ日本に於ける女性の権利や自由は遅れていたに違いない。雷鳥の生まれ育った環境で培われた情熱や信念の強さ、そして 何度も社会的非難やスキャンダルに晒されながらも反骨精神で切り抜け、自分の思想や理想に対して極めて一貫し周囲の反対や非難にも屈しない姿勢も持ち合わせていた。生涯女性解放運動を続けた雷鳥であったが強烈な個性と思想ゆえに孤立することも多く同じ運動内でも対立し孤立することもあった。このような思想の原点は幼少期からの環境と個人的な感受性が深く関係していえるだろう。知的で自己表現欲が豊かで後進の女性活動家たちに多大な影響を与えた人物であり、彼女を女性活動家に導いたのは家庭環境であり日本の封建社会であった。
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