偉人『マハトマ・ガンディー』

イギリスの庶民地から「非暴力・不服従」の運動を展開して3億人の民衆を味方にインドを独立へと導いた独立の父マハトマ・ガンディーを今回は取り上げる。偉大な魂という意味のマハトマは彼の本名ではなく、民主の思いが彼にこの名前を授けたという経緯がある。そんな民衆を味方に非暴力で独立を勝ち取ったガンディであったが、子育てにおいては目も当てられないような親子間の心の断絶を引き起こし、分かりあうことも許しあうこともなく親子はそれぞれ人生を終えたのである。今回は父ガンディと長男ハリラールとの関係性を考えてみよう。

1869年10月2日インドのグラジャートで国政に携わる父の四男一女の末っ子として誕生する。ヒンドゥー教徒で殺生を禁じられているにも関わらず、小学校の悪友の誘いに乗じて何度も肉を食べ、満腹で食事が取れないない場合にはお腹の調子が悪いと言って嘘をつき、親に隠れタバコを吸い、タバコを買うお金がない時には使用人のお金を盗み工面した。また学業成績は振るわず、かなりの怖がりで暗闇が苦手で一人用を足しに行くことができないほどの小心者であったという。両親はガンディーの素行の悪さは悪友の影響だとして関わりを持たぬよう話をすると、ガンディーは友人の悪さを治そうと関わりを持っているのだと友人関係を嗜められても素行の悪い友人らと離れることはなかったという。

1883年13歳でガンディーは1歳年上のカストゥルバと幼児婚をさせられた。その間ガンディーの父が病に伏せその時にガンディーは父に肉食をしていたこと、タバコを吸っていたこと、盗みをしていたことを打ち明け父に詫びを入れたのである。父はガンディーを許し1885年11月16日にこの世を去る。父がこの世を去る直前まで父の足をさすり付き添っていたが、別室で休んでいた産後の妻の様子を見に行ったわずか数秒の間に父は天に召されたのである。16歳少年にとって父を看取るはずが席を外した数秒間が彼に後悔をもたらしたのである。そして生まれたばかりの子供も亡くした。

高校を卒業したガンディーは大学へ進学するも中退し実家へ戻る。友人の勧めで法律を学ぶためにイギリス留学することを決意するが、母や叔父の反対を受けるも母に肉食・酒・女性を控えると母に誓いロンドンへ旅立つ。それも出産したばかりの妻をインドへおいてである。知っている人も多いと思うが「非暴力・不服従の運動を展開しインド独立への道をつくった英雄としての一面と禁欲主義者とは程遠い黒歴史のある人物である。禁欲主義を貫けるかと称した様々な実験と称した行動は子供達に教えることのできないものである。父に許しをこうたあの行動は一体何だったのであろうか。人間は矛盾したものとはいえ人間一人の裏表がこうも違うとなると聖人として扱うのはどうだろうか。その姿を間近で見ていたのがやはり長男のハリラール・ガンジーを筆頭とした家族であろう。

長男ハリラール・ガンディーは、ガンディーが19歳イギリスへ行く前に誕生しているが父を知らず幼児期まで成長する。8歳で父が渡った南アフリカへ移り住み父ガンディーの運動に従いリトル・ガンディーと呼ばれるほど父を信じ運動を行なっていた。息子ハリラールは父に憧れ弁護士になるためにイギリスに留学したいと考えた。しかし父であるガンディーはイギリス留学に強く反対し、自らが唱えるスワデーシ思想や禁欲的生活に従うよう求め息子の留学機会を別の人物に与えてしまったのである。そこから親子関係に深い溝ができ息子ハリラールは反発し父に逆らうかのような行動を繰り返し起こしていくのである。ハリラールはイスラム教に改宗しヒンドゥー教を捨てたこともまた父に対する抗議であったのかもしれない。しかし根本的に父子の考え方が違うのである。

ガンディーは禁欲、非暴力、自給自足などの理想を家庭内でも強く求めたが、ハリラールは愛する家族を持ち、経済的に安定した生活を強く望んでいたのである。しかし息子のこのような思いを父ガンディーは推し量ることも理解しようとすることもなく自分自身の理想を息子や家族に強制したのである。それを裏付けるのが妻カストゥルバを軟禁状態にした事実である。夫としての威厳を保つためとして行なった軟禁状態はガンディーの許し無くして外出することもできずただ行動を縛るだけではなく、理想の妻にするために頭の中までをコントロールしようとしていたのである。カースト制度があることも男性優位の社会であることもガンディーの考えに影響していたと思われるが。それでもイギリスからの独立や南アフリカでの人種差別を実際に体験したものとして弱き人々の立場を理解できていたであろうに、家族の気持ちを汲み取ることも自由に行動する権利も家族には与えないというのはどのようなことなのであろうか。

ハリラールはアルコール依存となり働くこともなく経済的にも不安定な生活を送り家庭を保てず、父ガンディと公開書簡で互いを批判することもあった。ハリラールの苦悩は偉大すぎる父を持つ子の苦しみと表現されることもあるが偉大とは何なのだろうか。小さな家族という単位で幸せを築くことができなかった父が、大きな国家独立を成しそれを後世に評価されることが果たして本当の偉大といえるのであろうか。父ガンディーの死後から数ヶ月息子ハリラールは結核のため病院で人生を終えるが最後の最後まで父がガンディーであることをひた隠しにしていたという。父ガンディーは子供に対して道徳教育を優先した。一方息子は西洋の教育を受けることを望んだ。ガンディー自身がイギリスでの教育を受けてそこに魅力がなかったと理解したとしても息子がそれを望んでいるとしたならば先ず息子をイギリスへ送り出してもよかったのではないだろうか。結果から言えば息子の現実の幸せを打ち砕いたと言っても良いだろう。また息子のハリラールは父ガンディーの行動の矛盾を見抜いていたのかもしれない。家族を捨て同性愛に走った父を心から蔑んでいたのかもしれない。

ガンディーは国民の父だったが、自分の息子たちにとっては矛盾に溢れるそして自分自身の価値観を強制する厳しすぎる父であり、理想を家族に押し付けるあまり大きな亀裂を生み互いに苦しい思いを増幅するものだったのである。つまりガンディーの理想は父という立場では限界と葛藤矛盾を生み出すものだったのである。

ハリラールは父対して子育て母は任せ、一緒に生活しても父から愛されたという感情も実感できず父は家族を軽視していたと感じていたようである。イギリス留学を熱望した息子は私有財産を持たない父の懐事情を察して自分自身で留学資金を知人に頼み込み、その報告を父にすると猛反対するだけではなく、息子に代わり有望な人物を留学させてしまった父ガンディーに対してハリラールが怒りと落胆を抱くのは当然である。家族を優先するという考え方のない父は人類最高峰の愛のある人物と言われる一面もあるが、血を分けた息子たちにも愛情を注ぐことができなかった矛盾に満ちた人物である。

今回は父の日を前に家族単位での愛情を充実させてほしいという思いからダメダメ父さんのマハトマ・ガンディーを取り上げた。

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