偉人『竹久夢二』
『大正ロマン』という言葉を生んだのが明治、大正、昭和を生き抜いた画家であり、自由を愛した詩人、乙女心を掴んで離さないデザイナーの肩書きを持つ竹久夢二である。彼の描く作品は夢二式美人画と言われ、大きな目の物憂げな表情に独特な曲線美を持つすらりとした体型、そして艶やかな衣装を纏わせたこれまでに無いモダンでファッショナブルな女性たちの姿であった。
竹久夢二の作品が好きかと問われたら夢二独特の女性の表情はなかなか好きにはなれないと答えるであろう。その理由はどこかアメデオ・モディリアーニの女性像と似通って見えるからである。女性の表情がどことなく憂いを帯びていて意味ありげで内面に抱えている何かすっきりしないものを感じるからである。なぜ彼がそのような女性を描くのか、おそらく夢二の女性遍歴というバックグラウンドを知っているが故の味方になっているのであろう。固定概念が崩せない色眼鏡で見ているからだと思うのだが、一度そのような見方をすると何も知らなかったまっさらな状態で見ることが難しい。というわけで今までの夢路情報を一掃しようという訳で夢二の生き方、母親との関係性、彼の内面には何があるのかを竹久夢二の育ちから紐解いてみる。
竹久夢二こと竹久茂二郎は今から131年前の明治17年(1884年)9月16日、岡山県邑久郡本庄村(現在の瀬戸内市邑久町本庄)で代々酒造業を営む家で父菊蔵と母也須能の次男として誕生。父は酒造業の他に農業、村議員を務めていた。夢二は次男であったが長男が早逝したため実質長男として育てられ姉と妹そして祖父母という家族の中で育つ。幼い頃から絵を描くことが好きでわずか三歳の時から筆を持って馬の絵を描き、幼くして画家となる素質が十分あったものと考える。父菊蔵は旅芸人を自宅に宿泊させ、彼らの刺激的で興味深い旅回りの話を耳にし憧れを抱いて夢二は育つ。夢二が生涯人一倍自由を愛し、漂流癖のあったのはこの幼児体験が深く影響していると私は考えている。そして豊かな自然溢れる岡山で少年時代をのびのびと過ごし絵を描くことにのめり込んでいった。そして彼にはもう一人尊い人物との出会いによって絵の世界に突き進んでいくことになった。自由に思うがままに心の感じるままに絵を描くことをさせてくれた教師服部杢三郎との出会いである。恩師の寛大な導き方で夢二は絵に向き合う楽しさを学び感性を磨いていった。また母親の実家が染物屋で幼い頃から染物の模様や色合いに触れる機会が多く、それが絵画への興味につながり絵画的感覚やセンスを育み磨くことになった。
16歳まで岡山で過ごした夢二は1899年神戸の叔父の家から神戸中学に通うことになったが、父の放蕩で実家の酒造業が傾き入学からわずか8ヶ月で中学を中退することとなり故郷へ帰った。八ヶ月の短い間に神戸の外人居留地やメリケン波止場など異国情緒漂う街で過ごし、南蛮文化やキリスト教の影響を受け絵を描く源泉になる刺激をここで多く受けたとされている。実家に戻ってから間も無くして夜逃げ同然で北九州に移り、経済的困窮や家庭の不安定さが彼に不安や寂しさを植え付けた。やがて神戸で受けた多くの刺激と絵を全うしたいとの未消化の欲求が絵を描く魂に火をつけ、上京し絵を学ぶことを決心する。しかし父は画家では食べていけないとし実業を身につけよと採算迫ってきた。夢二は早稲田実業学校に入学することで父と折り合いをつけたものの、母は画家になることではなく夢二の上京自体に最後の最後まで反対し続けた。
夢二にとって一番の理解者であった母が上京することに反対したことが夢二の心に大きな傷を負わせてしまった。つまり母だけは自分の思いを理解して上京することを認め、背中を押してくれるだろうと夢二は思っていたに違いない。しかし母は夢二の思いを汲み取ることはなかった。夢二の心はそのことで深い心の傷となり空虚感を生み出し、10代の若き少年時代から生涯を終えるまで常に抗し難い寂しさを抱え彼を苦しめていたのである。その思いはやがて孤独感や深い哀しみを埋めようと心は常に放浪状態となり、浮き名を流した女性の美しさを描きながら母の内面を見出そうとしたのではないだろうか。絵の中の女性の表情に見受けられる哀愁憂いを帯びていて意味ありげなのは彼の孤独を投影しているとも言えるだろう。夢二は母の愛情を一身に受けていただけに衝撃が大きかったのであろうが、母もまた息子の幸せだけを願い上京を反対したことは後々明らかとなる。わずかな心のすれ違いが大きなボタンのかけ違いとなり夢路の葛藤の始まりであった。
17歳で単身上京した夢二は父と折り合いをつけるために翌年には早稲田実業学校専攻科に入学するが、生活費を稼ぐために新聞に風刺画を描き始めこれが画家としてのスタートとなった。画家岡田三郎助と出会いで本格的な洋画を学ぶことを考えるも「正式な美術技法を学ぶと今の個性や天分を壊しかねない」と言われ、夢二はそのまま独学で画道に精進することを決めその後才能を開花させたのである。しかし正規の美術教育を受けず画壇に属さず独自の画風を確立したことは、さらに夢二を既存の枠に収まらない孤高に身を置かせてしまった。才能ゆえの孤独感や理解者が少ないことへの寂しさがますます彼を孤独に追いやってしまったのである。夢二が安住の地を持たず漂白の人生を送ったのは致し方なかったのかもしれない。が、幼い頃の旅芸人との関わりもまた少なからず夢二を漂白に誘ったかもしれない。これらの要因が複合的に絡み合い夢二の作品に表れる独特の哀愁や彼自身が抱えていたとされる深い哀愁と孤独が作品を描く源泉となった。
夢二は描いた女性像の中に母親の温かさや慈しみを求めていた節があり、夢二式美人画の優しく儚い表情には母性への理想像が反映されている。夢二は大正時代に花開き栄光を極めるも昭和に入りぴたりとその人気跡形もなく消え波経済的困難も抱え、晩年には病にも苦しみ故郷を思う詩や回想も記しているが、その中で母や家族への思慕が見え隠れする作品や記述も残されている。
「母様は世界で一番優しい人。母様の膝の上で、母様の眼の藍色の床しさをあやしみつつ見詰めた。」
「夕方になつてひもじくなると母親(おふくろ)のことを思ひ出します。母親(おふくろ)はうまい夕餉を料つてわたしを待つてくれました。」
49歳結核でこの世を去るまで夢二は故郷や母親への深い思いがしばしば表現されている。遠く離れた故郷で自分を待ち続けてくれる母親の存在を悲しく思う気持ちや何があっても変わらず温かく迎え入れてくれる母の愛への感謝を言葉に残し、彼は亡くなる数日前にわずかな全財産を文芸仲間の病院長に手渡し、死の間際に身の回りの世話をしてくれた知人に「ありがとう」といって黄泉の国へ旅立った。人生の終わり方を見ても夢二は感謝で終わることができている。やはり愛情を一身に受けた経験がなければそのような人生の幕の下ろし方はできまい。妻や子がありながら多くの女性との関係を公然として憚らず、妻に暴力を振るい現代なら逮捕されてもおかしくない事件沙汰を起こし、多岐にわたる才能を発揮し芸術家としての情熱を貫いたが、その根底にあるものは母に愛され母の姿を追い求め続けたということであろう。そして母の元から強引に我を通し、母の言葉に耳を貸さず上京した自身の心の内にある後ろめたさや後悔そして詫びの気持ちが彼の描く作品の女性の表情となったのではないだろうか。そう考えると冒頭で述べた好きにはなれないという言葉を撤回し、夢二とその母の深い心の繋がり、互いを思い合う情に心を寄せたいものである。
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