偉人『ヘンリー・マンシーニ No.1』
先週の偉人『ニーノ・ロータ』(記事はこちら)を受けて同じイタリアの血を引く生誕100年の映画音楽家ヘンリー・マンシーニを取り上げる。彼はイタリア系アメリカ人の作曲家・編曲家・指揮者・ピアニストという多面的顔を持ち、映画音楽やテレビ音楽の分野で非常に高い評価を受けた人物である。ニーノ・ロータのように哀愁や物悲しさノスタルジックに溢れる作品とは異なり、とにかく多くの表情を持つ作品が多くその幅の広さに驚かされる。例えば一度聴いたら耳から離れないオードリー・ヘップバーンの歌声が思い出される『ティファニーで朝食を』の『ムーン・リバー』のような跳躍で一気に耳が惹きつけられる美しいメロディーもあれば、ピンクパンサーのテーマ曲のように抜き足差し足忍足を連想させる滑稽な曲、そしてソフィア・ローレンの映画『ひまわり』であの美しいウクライナのひまわり畑の映像に過去の戦争歴史を重ね合わせた何とも物悲しい曲など曲調は幅広い。誰もが一度は耳にしたことのある名曲が多いのはやはりマンシーニの思考や感受性の豊かさにあるだろう。では彼がなぜ幅広い曲想を展開させることができたのかを考えてみよう。
本名エンリコ・ニコラ・マンシーニは1924年4月16日アメリカ・オハイオ州クリーブランドでイタリア移民の家庭に誕生する。ペンシルベニア州アリクイッパという小さな工業町で製鉄所で働く父 クアリーノ・マンシーニと母(名前は不詳)に育てられた。父は音楽に造詣があり フルートを嗜み、ヘンリーにピッコロとフルートの手ほどきを行った。彼はのちのインタビューで「父のフルートが自分の人生を変えた」と語っており、幼い頃からの家庭の中にあった“音楽との自然な触れ合い”が彼の才能を育んだと考えられている。音楽家としてはスタートの遅い8歳でフルートのレッスンを始め、10代の頃ピアノ演奏や作曲にも興味を持つようになり音楽への関心を深めていったが、高校卒業後にカーネギー工科大学に進学する。しかし憧れのベニー・グッドマンの楽屋を訪れ、ベニーから音楽をやりたいならしっかりと学校で音楽を学び教育を受けるべきだと言われ、ジュリヤード音楽院に入学した。しかしジュリヤード音楽院で学んだが第二次世界大戦のため中断し従軍することとなる。戦後は音楽の道を本格的に志し、映画音楽の世界へ進んでいく。そして憧れのベニー・グッドマンの楽団より編曲の依頼が来るが、気合が入りすぎて技術を詰め込みすぎ楽団員からの評価が低く仕事を全うすることができなかった。ここで彼は初めての挫折を味わうのである。
その後トロンボン奏者のグレン・ミラーの楽団に入り映画音楽の世界に飛び込む。当時ハリウッドの映画音楽界は華々しい成長を遂げ、得意のジャズサウンドを取り入れたマンシーニは一躍映画音楽家いの人気者となる。サウンドトラック全米1位を取り『ムーン・リバーで』名前を世に知らしめることとなった。マンシーニがクラシック音楽の世界に飛び込まず映画音楽界に飛び込めたのは若いころから特にジャズに惹かれていたことと、労働者階級の家庭で育ったことが大きく関係し、実用的な音楽観を持ち続けまた商業音楽としての映画やテレビ音楽の世界で成功する基盤を築いたと考える。
マンシーニがクラシック界へ進まず映画音楽界に進めたのは先の理由であるが、幅広い曲想の作品を描くことができたのにはこの映画というものの刺激が大きく関係しているだろう。音楽の道に進んだのは父親の楽器演奏が音楽への最初のインスピレーションとなったが、その後のキャリアには映画界の世界とそれに関わる映画関係者、作曲家、演奏家などの人々との交流が彼に大きな影響を与えた。しかしそれ以上に彼の勤勉さが深く関係していることは間違いない。では彼の人間性を考えてみよう。
マンシーニは非常に勤勉で作品ごとに細部までこだわる完璧主義者でもあった。自宅に作曲専用のスタジオを持ち毎朝9時に必ず作業を開始していた。午前中は作曲、午後はアレンジや修正といったように規律あるスケジュールを自らに課し、まるでオフィスワーカーのような勤勉さだ多様である。マンシーニは「インスピレーションが来るのを待つのではなく、時間を決めて机に向かうことがプロの作曲家には必要だ」と語り、プロフェッショナリズムと勤勉さの重要性を説いている。彼の非常に勤勉さは作品ごとに細部までこだわる完璧主義者という一面もあり、音楽業界では「信頼できる仕事人」として知られ、監督やプロデューサーからの信頼も厚かった。彼のこの習慣は晩年まで守り続け、作品のクオリティと一貫性を支えたと言っても過言ではない。そしてその勤勉さは彼を取り巻く人々の言葉で裏付けされている。「彼は締め切りに遅れたことが一度もない。しかも、いつも期待以上のものを持ってきてくれる。音楽家であり、職人でもある。」と。
では彼のような勤勉さというものはいつから育ち、どのように育てればよいのであろうか。
1歳前から小さな成功体験を積ませることがまず必要になり、結果だけでなく過程に価値を見出し粘り強く物事に取り組めるようにする努力を認めてあげること、また子供は言葉よりも行動から多くを学ぶため親がその勤勉さの手本を示す必要がある。そして自らのスケジュール管理ができるようになると計画通りに動く経験が勤勉な習慣に繋がるためその練習が必要になる。その上で継続の価値を伝えその継続で得る勤勉さが将来に繋がることを理解させるべきである。最も重要なのは「勤勉さ=苦しさ」ではなく「勤勉さ=自分の成長や目標につながる喜び」だと子供が感じることができる環境を作ることである。つまりこの勤勉を身につけさせるには乳児期から最低でも小学校6年生までは地道に働きかけることが必要である。
マンシーニは生涯で90本以上の映画、100本以上のテレビ番組の音楽を手掛け「量産」しているにもかかわらず手抜きがなく、多作でありながら質を落とさないと業界でも称賛されていた。複数のプロジェクトが重なる中でも手を抜かず全てに魂を込める姿勢は、多くのプロデューサーや演奏家から尊敬されていたという。マンシーニの勤勉さは単に「努力家だった」というだけではなく、音楽に対する真摯な姿勢、パフォーマーや観客への深い敬意、日々の規律をもった作業習慣、膨大な作品数でも一つ一つ丁寧に仕上げるプロ意識といったプロフェッショナルとしての徹底した姿勢に表れている。マンシーニの音楽が長く愛され続ける理由の一つはこうした見えないところでの努力と誠実さにあるのだろう。彼の言葉を借りまとめるとしたら、「インスピレーションが来るのを待つのではなく、毎日決められた時間を真摯に仕事に向き合うことで幅の広い作品を次々と生み出すことができた。」ということではないだろうか。彼がなぜ幅広い曲想を展開させることができたのか、それは勤勉さが大きな鍵を握っていたことにある。勤勉さを身につけておくことは子供の可能性を確固たるものにするために重要なものであることがヘンリー・マンシーニの人生から紐解くことができるといえよう。
次回は彼の誰からも愛される人柄に迫ってみたい。
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