偉人『国木田独歩』

料理をしながらふと芸術家や作品のことが頭を過ぎることがある。昨晩主人のリクエストにより肉じゃがを作ることになった。たまたま冷蔵庫から牛肉、じゃがいも・・・と出してふと国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』を思い出したのだ。「国木田独歩かぁ・・・」と連想ゲームが始まるのが常である。その連想ゲームが最終的にどこに辿り着いたかというと雑誌『婦人画報』である。国木田独歩と婦人画報と何の関係が?・・・婦人画報の創始者は国木田独歩である。『武蔵野』『忘れえぬ人々』などの作品を生み出した日本文学者の国木田独歩がなぜ婦人向け雑誌を作ることになったのかを彼の人生から紐解くこととする。

『婦人画報』は1905年(明治38年)に国木田独歩によって創刊された。当時の婦人向け総合雑誌として家庭生活・育児・服飾・文学・芸術など幅広い内容が扱われ、写真・挿絵が多く当時としては非常に洗練されたビジュアル誌だったようだ。

独歩は「日本の婦人がもっと文化的で知的な生活を送り、家庭の中心として社会を豊かにするべきだ」という考え方を持ち、当時としてはかなり珍しい婦人向けの「美」と「文化」を追求した雑誌を目指したのだ。独歩は文学者としての審美眼で誌面作りも行い、婦人のための芸術雑誌としての形は現代の婦人画報にもその気遣いのまま受け継がれている。男尊女卑が色濃く残る明治時代に独歩はなぜ婦人画報を発行するに至ったのかを彼の生い立ちから紐解いていく。

1871年8月30日父国木田専八は、旧龍野藩士で榎本武揚討伐(戊辰戦争)後に銚子沖で遭難し療養していた。療養先で母うたと知りあい独歩が生まれた。父専八は国元に妻子を残し、母うたも離縁した夫がおり独歩は戸籍上母の元夫の子となった。後に独歩はこの出自にかなり心を痛め思い悩んだという。父専八は後に司法省の役人となり独歩は5歳から16歳までを山口の萩や広島の岩国などに転居し、体の弱かった独歩はその土地土地で自然に触れ読書に勤しむ作家となるべく子供時代を過ごした。独歩が活躍した時代の日本文学界は自然主義の時代に入り、社会の現実や人間の本能的な姿を写実的に描くことが主流となり、独歩は単なる「写実」ではなく、自然や人生の中に生の真実と「美」を見いだすことが文学の使命だと考えたのである。独歩にとって美とは現実逃避ではなく、現実の中に見いだす精神的な光だったといえよう。

独歩の作品を読んだことのある人ならば、彼の作品は母性・信仰・人間の孤独といったテーマが書かれていることに気づくであろう。たとえば『運命』『武蔵野』『忘れえぬ人々』『春の鳥』などの作品には厳格で純粋な人物への愛憎や道徳と人間の本能との葛藤といった要素が見られる。実はこれらは母うたとの関係の投影である。

母うたはキリスト教徒であり信仰心が非常に篤い人物であった。独歩は母を深く愛していた一方で、母の厳格で独歩に対しても宗教的・道徳的な規律を強く求めたことで、母のその厳しさや道徳的圧力に息苦しさを感じ、愛情と反発が交錯する複雑な親子関係であった。この関係はとても複雑で独歩の人格形成のみならず、後の彼の思想や文学にも大きく影響した。

また独歩は幼くして漢学を学んでおり儒教とキリスト教の相反する価値観に触れた経験が、さらに独歩の内面的な葛藤や精神的な深さへと繋がり複雑さを抱えてもいる。親の宗教観について述べさせてもらうと、親は自らの信じる道を子供にも宗教に関係なく伝えようとするものであるが、子供の精神性に大きな影響を及ぼすような縛りをしてはならぬと考えている。3年前の安倍晋三元総理大臣の殺害の犯人も母親の宗教観が犯行の理由だと自供し、このような事件を起こしている。親が信仰を持つ家に育ち、言われるがまま信じてきた宗教2世が成長と共に信仰に疑念を感じるようになることは、現代の子供達も独歩が生きていた時代も変わらない。宗教をやめられず苦悩を抱える2世もいれば、やめた道を選び自分自身の道を歩み始めた2世、やめた後も苦悩を抱え続ける2世など問題を論じている文章を見る度に、ふと頭を過ぎるのが独歩である。母との複雑な関係性があった独歩だが母の死は独歩に非常に大きな衝撃を与え、その後の作品には死と孤独の意識が色濃く反映されている。私が考えるに親の宗教観で子供を縛りすぎると子供に生きづらさを与えかねないということだ。親の宗教は親の宗教観であって子供の強要すべきではないし、子供に選択権を与えるべきである。独歩のように物事を深く捉える子供の場合には生き方にダイレクトに影響し、生きづらさを抱えさせてしまう。独歩の信仰・倫理・孤独・人間理解に深く影響し、彼の文学もまた 母性・信仰・孤独・道徳的葛藤のテーマが多く見受けられ苦悩していることがわかる。母親を愛していた一方で母を受け入れられない思いを抱え愛と僧の複雑な思いを母にもつ独歩に取り、これらの思いを乗り越えるために必要だったのが独歩にとっては美であった。

先述した通り独歩のは「日本の婦人がもっと文化的で知的な生活を送り、家庭の中心として社会を豊かにするべきだ」と語っていたことに通ずるのである。独歩の短い36年という人生は常に貧困・孤独・挫折など非常に苦しい生活を送り、理想と現実の間で絶えず苦悩しみもがきながらそれでも「生きる意味」を探し続けた人生を解決するために独歩が見出したのが美であり、母と同じ女性たちが「苦しい現実の中でも、人間が人間として生きる価値を見いだすことができるように」と残したのが『婦人画報』である。自分自身を肯定するために、そしてこれからの女性やその子供たちが精神的に楽に生きることができるように道標と提案したのである。独歩は『独歩吟』の中で「我は美を愛す、美こそは人生を照らす光なり」との言葉を残している。独歩は「美」は、宗教の代わりに人間の魂を支えるもの、つまり生きる根拠や救いとしての美を求めていたのではないか。しかし独歩が心の底から求めていたのは母親の厳しい宗教観に垂らし合わされたものではなく、純粋に何者に縛られることのない無条件の母の愛情であり、それが与えていたならば独歩の苦しみは軽減されていたのではないだろうか。いやそれでは独歩の人生を通しての学びは半減していたであろう。

日本の最古級の女性誌である婦人画報は独歩の苦悩が結実した自分自身を解放する方法であり、これからの女性の生き方を道案内する雑誌でもある。『婦人画報』を手にするときに国木田独歩の思いを胸に1ページ1ページをめくってみてはどうであろうか。


Baby教室シオ

ほんものの学び。今必要な学び。乳児期から就学期までを総合プロデュースする沖縄初の乳児のためのベビー教室です。