偉人『中原中也』

秋の只中みなさんはどのような読書を味わっておられるであろうか。かれこれ30年以上前に主人が仕事先からシドニー・シェルダンとハロルド・ロビンズの作品を数十冊持ち帰った。自分では試し読みの世界でしか手にしない作品であったが、目の前に山積みになると読まなくてはという衝動に駆られてしまったのである。テンポの速い展開、次々と起こる逆転、陰謀、裏社会、サスペンスに加え強烈な cliffhanger(続きが気になる終わり方)に翻弄されながらも「読んだら止まらない」「一晩で読めるスリラーの王様」と言われる部類の作品に時間を注いだ景観がある。そのような世界観を味わった後は静かな作品をじんわりと味わうために図書館を訪れた。そこで何と話に手にしたのが中原中也であった。彼の特徴である虚無感、喪失、自己への痛切な感情を独特のリズムで表現された『汚れつちまつた悲しみに……』や子供達が作品の哀愁のある情景描写とは真逆のふざけながら「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」とリズムを楽しんでいた『サーカス』、故郷への複雑な思いを描いた『帰郷』などを読んでは中原中也という人物がどのように形成されたのかを考えた。繊細で感受性が強く悲観的で憂鬱な性格、自分の理想や美学に対して妥協しない激しく情熱的な一面、孤独感に苛まれもがき苦しんでいるのはなぜなのか、どのような育て方をすればそうなるのか、それとも元々の性格なのか・・・当時は私の経験も未熟で思うように答えが出せなかったのであるが、月日と経験が私を成長させ一つの結論に至った。今回はその自分なりの結論を記して中原中也を通して子供の育て方を考えてみ流。

私が導き出した結論は、中也のような繊細で気難しい性格は後から作られたものではなく、もともとの気質つまり感受性が高く繊細さを待ち合わせていた上に、育ってゆく環境 と心身の発達が彼の心に影響し、更に大きな生活上の出来事 のライフイベントが心や思考を捻れた状態にしたと考えている。そのことを念頭に中原中也の生まれた家の環境と生い立ちを読み解いく。

1907年4月29日山口県吉敷郡下宇野令村(現:山口市湯田温泉)で、医師である父柏村謙助と母フクの長男として誕生した。後に父は母の生家である中原家に養子として入り、中原医院を継いでいる。両親は子宝を望んだがなかなかできず、待ちに待った長男中也の誕生に両親はもちろん祖父(中原壽三郎)が大いに喜び、親類や近所に菓子や酒をふるまい誕生を祝った。父は中也が誕生時軍医として中国大陸の旅順に赴き、どうしても息子を手元で育てたいと願うほど息子を愛していたが、その反面大変厳しい躾も行なっていた。例えば父の考え方にそぐわないことをすれば納屋に閉じ込めたり、タバコの火種を体に押し付けるなど懲罰のあるしつけを実行していたのである。また同じ階級の家の子供でなければ息子と遊ばせない、住まいのある湯田温泉の風紀の問題で外でも遊ばせない、泳ぎは溺れるからとして泳ぐことを許さなかった。つまり子供らしく自由うに遊ぶことが許されず厳しい生活を幼い頃から強いられていた。

冒頭で記した通り生まれながらにして感受性が高く繊細な子供たちは存在する。中也もそのような子供で感情の整理ができず癇癪を起こしたり、友人に対して卑劣な行動もとっている。余談だが太宰治と初めて出会った時から絡み続け夜襲をかけた。見兼ねた檀一雄が中也を投げ飛ばしたというエピソードが残るほど周りの人間を煽る行動をしていたことはエピソードとして数多く残っており、酒癖の悪さも影響して友人も少なかったと言われている。

もともと生まれ持った気質を直すことは難しい。感受性の強い(感受性が高く繊細)子供が全て中也のようになるのではないが、中也のように厳しい環境 で育ててしまうと強い不安や緊張そして自己否定が表れやすく、また強い反抗・かんしゃく・暴言というものもでやすい。中には萎縮する子供や感情を表に出さなくなるケースもある。しかしその逆の温かい環境で思慮深さや共感力へと働きかけ、持って生まれた感受性を豊かに発揮できる方向で育てるてあげると大きな結果をもたらす事になる。つまり感受性の強く繊細な子供にはその子の生きやすさを優先して育ててあげるべきだと考える。

このことを踏まえて少年期の中也の経歴を見ていこう。

両親は教育熱心で母は中也の学びの予習復習を徹底するという役を担い、幼い頃は神童と呼ばれるほどの教育を中也に施した。12番の成績で山口県立山口中学校に入学したものの読書に明け暮れ、成績は下がり多少の上下はあったものの持ち直すどころか、両親に隠れ防長新聞の短歌会に出入りし飲酒や喫煙を覚えたのである。ついに3年生で落第が決定。通知を受けた父謙助は大きな落胆で数日間往診に出なかったほどである。一方中也は級友を勉強部屋に集め万歳をし答案を破り捨てたという。その様子を見て祖母スヱが「この位のこと何です」と部屋を掃除したというエピソードが残されている。しかしこの話はまだ終わらない。世間体を気にした父は誰も彼の状況を知る者のいない京都の学校へ行かせたのだ。すると慣れぬ場所、言葉も文化も異なる未経験の地、そしてよりによって建前と本音の文化の京都に送り込んで、中也は孤独と疎外感を味わいホームシックにかかり劇痩せして帰郷したという。

ここで冒頭で記したライフイベントの影響を考えてみよう。子供の心身の発達に影響を与える 大きな生活上の出来事は、子供の成長を良きものにする場合もあれば、中也のように心に影を抱かせ時には重しとなり息苦しさを抱えさせてしまう場合もある。父謙助にとって医師の家系に生まれた息子は神童と呼ばれ、いずれは医者になり家を継ぐものと大きな期待をかけていたであろう。しかしそれが叶いそうにないと理解しつつも、今の環境を断ち切り新しいところへ送り出せばどうにかもう一度やる気になるのではないかという儚い望みを抱いたのかもしれない。しかし現実は父の儚き夢を打ち砕き、彼は自分のやりたい道を見つけ短歌やその他の文学にのめり込み、学校の勉強どころではなくなっていたのである。そして16歳で3歳年上の女優の卵との同棲生活が始まり酒、烟草、色恋に溺れてしまった。そして中也に大きな衝撃を与えたのが愛した女性は中也の親友の元に行き、友情に亀裂が入り裏切られたという感情を抱く経験をし精神的に深い傷を負ってしまう。

また中也には4歳離れた弟の亜郎(つぐろう)が誕生するも幼くして脳膜炎で死去する。中也は後年『詩的履歴書』に詩作をはじめたのは「亡くなった弟を歌つたのが抑々(そもそも)である」と記している。両親の悲しみは大変深く家庭の中が暗く深い悲しみに沈んだという。その影響で中也は幼いころから「死」や「不安」を強く意識するようになった。

他にも7歳のときに父の勧めで 東京の鎌倉の小学校へ「寄宿」 という形で送られホームシックに苦しみ、家族から離されたという一人にされたという複雑な感情を抱いた少年時代を過ごした。つまり中也の心の中に悲しみ、孤独、苦しみ、裏切り、人間関係の葛藤、理解してもらえない苦しさがどんどん募っていった少年期から青年期を送った。

このような経験を通してあの独特の憂愁と純粋さの共存する詩世界を築き上げたとも言えるが、子供の頃の中也の後ろには必ず父の考え通りに育てられ、もともと持っている感受性を歪める方向に進んだのは間違いない。彼の作品に存在する虚無感、喪失、自己への痛切な感情、故郷への複雑な感情、恋人との関係をめぐる痛々しさ、青春の痛み、孤独、情念は、全てもともとの気質 、育った環境 、ライフイベントによってゆっくり形成され、さらに強い自意識 と 心の傷となる体験が彼の詩の美しさと痛切さの源になっているのであろう。若い頃から「自分は他の人と違う」という意識が強く、芸術家としての自尊心と不安の両方を抱え孤独と向き合うことが多かった人生でもあった。

しかし感受性が強く繊細なことは欠点ではない。つまり長所にもなりうる弱点を持つ性質と言える。味方を変えると欠点ではなく、共感力が高く、注意深く考えられ、クリエイティブに直感的を働かせることができるものであり、それを温かく伸ばしてあげることで強みに繋がる性質である。ただし、ストレスの多い環境では不安や疲れやすさとして現れるため、環境の影響を受けやすい性質ということも理解しておきたいものだ。感受性の強い繊細な子供をもつのであれば、そのことを念頭に置いて子育てを楽しむ決意をしていただきたい。

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