偉人『紀貫之』

今週は花見に関することを記事配信のため偉人も桜に関する人物を・・・ならばこの人しかいないということで紀貫之を取り上げる。これは単純に桜について詠んだ名歌を受け、その作風が思考を促す事が選んだ理由である。紀貫之が作品に思考を取り入れていることから、思考を好んで行なっていたのではないだろうか?と推測したからである。古の人物なので彼の幼少期を明らかにすることはできないため、私の独断と偏見、妄想するに勝手な解釈するになるかもしれないが、現代の思考を深めた人々の特徴と照らし合わせながら子育てに活かせるヒントはないかを探ってみる。

本題に入る前に冒頭で記した紀貫之の有名な桜にまつわる和歌をみてみよう。

私の好きな和歌の一つが『久方の 光のどけき 春の日にしづ心なく 花の散るらむ』( 出典は古今和歌集)がある。現代語訳をすれば「春ののどかな日に、どうして桜の花は落ち着かない様子で散っていくのだろうか。」と大方このような意味になる。穏やかな春と散る桜の対比が美しく、「なぜ散るのか」と問いかけることで桜のはかなさを表現している。この感性は観察力なくしては生まれてこない。観察力が優れている場合は必ず同時に思考力が生まれるものである。紀貫之はおそらく幼少期から観察力が優れていたに違いない。

そしてもう一つ『桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける(出典は古今和歌集)。現代語訳は桜を散らした風のあとには、水もない空に波が立っているようだ(花びらが舞っている)この桜の花びらが舞う様子を空の波にたとえた表現が特徴で、観察力から想像力へと移行するその繊細な感覚が羨ましいと感じてしまう。紀貫之の桜の和歌は「美しい」だけでなく、「なぜ散るのか」「どう見えるのか」を考えさせる作品であることが現代の子供達にも受け継いでおきたい能力である。花見をしながら飲めや歌えや大騒ぎという花見文化だけで終えるのは大変勿体無い、「どうして桜は美しく舞うと私は感じるのだろうか」「花びらはどこへ行き着くのか」など色々な方向で考えてほしいものである。

そして死後に紀貫之が明らかに思考している事がわかる春の歌がある。

「桜花 咲きにけらしも あしひきの 山のかひより 見ゆる白雲」この歌の思考の流れは先ず山を見る、すると白いものが見える、あれは雲?いや違う、桜が咲いたのだろう。つまり、観察 → 疑問 → 仮説 → 結論という紀貫之の思考と歌を作るプロセスが理解できる。この作品の優れている点は直接桜の花は見ておらず、見えないものを歌の中に出現させている事である。桜を見ずに桜を詠んだ歌であり、断定しないことで知的な余白もあり、比喩として白雲を桜に見立てたり、また山という言葉で歌全体のスケールを大きくするなど見えるものだけではなく見えないものをも美しく言語化している思考力が紀貫之の凄さであり魅力である。

では紀貫之の思考力の豊かさがどこにあるのかを考えてみよう。

彼のような情感を美しい言葉で表現できる思考力は、単にセンスの有無で生まれるものではなく、いくつかの積み重ねで育っていることが多い。今回は大まかに3つに分けた。一つは感じる力、二つ目は言葉の引き出し、三つ目が結びつける力の3つが絡み合い成立した形が彼の思考力の根源ではないだろうか。

先ず彼の思考力の土台になるのは感情や体験を細かく感じ取る力である。たとえば同じ夕日を見ても「きれい」で終わる人と、「少し寂しくて、でもどこかホッとする柑子色だ」と捉える人がいる。この差は日常の中で自分の感情をちゃんと観察してきたかどうかである。また親の言語力にも大きく左右される。私はとにかく乳児期の子育てにおいては感嘆詞を多く用いよと伝え、幼児期には感嘆詞に加えて五感をフルに活用した言葉を用いよ、そしてなるべく情緒のある言葉を使ってほしいと伝えている。この日常の言語使用に加えて、幼い頃から本を読んだり、自然や人との関わりを丁寧に味わう経験が多い人は感情の解像度が高くなりやすい。そのためには心にゆとりのある状態でじんわりと温かなものが心の奥に広がる時間を設ける必要がある。ところがだ、現代はそのようなことを意識して設定しなければ生み出す事ができないほど忙しない。子供の感性に働きかける時(トキ)が殆んどない事が残念極まりない。

次に、言葉のストック量である。どれだけ繊細に感じてもそれを表す語彙がなければ表現できない。文学作品、詩、歌の歌詞などに触れている人は「こういう感覚はこう言えるのか」という対応関係をたくさん持っているが、現代では大人自身が言葉のストックが少なく、子供に対しての声掛けもパターン化している。そこに危機感を覚えたあるご父兄がお子さんと共に言語学習をスタートさせた。私が提案したのは「一つ言葉を別の言い方で表現する方法」である。つまり「この言葉はどんな空気をまとっているか」というニュアンスの理解である。強い言い方にするとこうなる、オブラートに包むとこんな感じ、優しい表現ならこうかな、独り言のように呟くとするならどうするかをあらゆる角度で考えさせることである。例えば先に出た夕日を表現するにあたって「オレンジ色」とするならば子供は理解が早いだろう。その一方で夕日は時間や空気の状態によって変化する。その瞬間を切り取るように典型的なオレンジを橙色と表現したり、太陽が沈む直前なら深く濃い赤色、霞がかかっていたらやわらかく優しい印象のピンク色、日が沈んだ直後なら少し幻想的な紫が混じる色合いとして思考できる体験と表現する時間が欲しいものである。つまり子供達が自分の言語の引き出しから言葉を引っ張り出すためには経験が必要であり、それを紡ぐためには言語化している表現に出会わなければならない。その出会いを色々な経験と書物から得る事が必要不可欠である。

そして最後が感覚と言葉を結びつける思考力である。これは比喩や連想の力とも言えるものだ。たとえば「寂しい」をそのまま言うのではなく「雨上がりの駅にいるみたいだ。しーんと静まり返ってひとっこ一人いない。自分だけがぽつりと立っている」、また切ないを表現するなら「音の消えたオルゴール前に心の奥でその音をひたすら探し続けるが探せない」などと比喩や想像力で表現できる人は、異なるもの同士をつなげる回路が発達している。この力は読書や創作だけでなく実は「なぜそう感じたのか?」と自分に問い続ける習慣で鍛えられていく。今自分は何を感じているのか振り返えさせてみると意外と冷静に「なぜ?」を問うようになる。さらにその力の上に言葉を磨く時間を設けることが重要である。美しい表現をする人は最初からその言葉に辿り着いたわけではないだろう。頭の中や紙の上で言い換えや削ぎ落としを繰り返して的確な言葉を手に入れている。つまり即興の才能というよりも推敲に推敲を重ねて編集力に近い部分に磨きをかけている。紀貫之はこのようにして言葉力に磨きをかけていたのではないかと想像する。そして発想の転換で『土佐日記』では男性でありながら女性になりきって執筆を行うユーモアにも溢れ多面的なものの見方考え方捉え方ができる豊かさを持つ人であったと考えている。

そんな紀貫之に近づかせたいなら「絶対に感じたことを一言で終わらせず、もう一歩別の言葉で言い換える」ことから始めると確実に言葉の扱いが変わり、思考力にも磨きがかかってくるだろう。


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