偉人『徳川家康の母 於大の方』
今回は徳川家康の母 於大の方(おだいのかた)を取り上げる。於大の方は歴史上では主人公として取り上げられることはあまりないが、「織田がつき、豊臣秀吉が捏ねた餅を、座って食べた」と言われるのが家康でその家康の母として取り上げられる。母の日を控えて今回は於大の方を主人公としてブログに取り上げることにした。
於大の方は戦国時代の女性であり、徳川家康の実母として知られているが、彼女の人生は戦国の政略や離別に翻弄された波乱に満ちている。それを念頭に彼女の人生を紐解いてみる。
於大の方は現在の愛知県三河の国衆(地方武士)の水野忠政の娘として誕生した。父忠政は今川方の岡崎城主松平広忠と手を結びたいと考え、14歳の娘於大を嫁がせたのである。14歳と考えると中学2年生、そして家康を産んだのが16歳つまり高校1年性である。現代に置き換えると16歳での出産となると不可能ではないが、医学的にはリスクが高めと考えられている。体の発達という観点からすると骨盤の成長が完全ではないことやホルモンバランスが不安定であるため成人と比べると出産時の負担がやや大きくなる。また若年妊娠では早産、低出生体重児、妊娠高血圧症候群、貧血、骨盤の未発達などによる難産など多くのリスクがある。それをあの医学が発達していない時代、そして栄養面では武士といえども白米は毎日食べられず、タンパク質は不足気味、ビタミンやミネラルは野菜や階層が摂るも保存技術が限られていたため季節によって栄養の偏りが出やすい状況の時代だ。つまり生命保持の最低限の食事であった中で、成人に達していない女子が出産をするにはリスクが高い。またそのような状況で乳児が育つのも奇跡の連鎖反応でなんとか世代を繋ぐ戦国時代だ。
また於大の方はすぐに家康を出産することができ政略結婚としてはうまく行った。がしかし於大の方の父水野忠政が死去し兄に家督が継承されると、なんと徳川の敵対する織田側に着いてしまった。すると家康3歳の時に母の於大の方は徳川を追放されてしまうのだ。3歳といえば会話が達者になり意思疎通も図れ、親子の絆が強くなり愛おしさが募る年齢である。そんな時期に母が家から出されてしまうことを考えると、家康(竹千代)は取り残されるような心細さと不安に押しつぶされたであろうし、母於大の方にしてみれば腑が千切れるような断腸の思いや胸が張り裂け締め付けられる思い、身を切られるような悲しみ、どうしようもできない虚しさが全身を駆け巡っていたに違いない。自身に置き換えるとなんとも表現し難い思いが溢れてくる。
母と息子は離れ離れになり、やがて父広忠が織田に対抗するために今川に支援を求めると、家康を人質として差し出すよう求められた。この話は歴史上では嫌というほど耳にし目にしていると思うので割愛するが、今川と織田の間を行き来させられる過酷な幼少期を送った。その間母の於大の方は織田方の久松俊勝と再婚し7人の子供を儲けた。しかし於大の方はその間も家康を案じ生活の不都合や困り事はないかと察し届け物を何度も行っている。そして桶狭間の戦いでは家康は今川側、再婚後に産んだ子供らは織田側と一戦交えることになった。自分自身の子供たちが刃を交えることになったのだ。
家康は今川の先鋒を任され尾張に入り、本来ならば敵陣の先鋒を自らの城に入れることなど考えられないが、於大の方は阿久比城に家康を迎い入れ、家康は母於大の方と異父兄弟と面会している。桶狭間の戦いは誰もが周知の事実で織田が勝利しことはお分かりであろう。さすれば今川側の家康は危ない。そう察知した母於大の方は兄に働きかけ、家康が難を逃れられるように使者を使し、生命の危機が迫る土壇場で息子を救ったのである。
ここまで記すと母於大の方と家康は温かな感情を交わした密接な繋がりがあったと思われがちだが、そうとも限らず人間的な一定の距離感は保っていたようである。その理由は家康の感情として幼少期に離別し、成長過程で長く接点がなく、於大の方と家康が再会した時にはすでに天下人として世の中を収める多忙さがあり、情緒的な結びつきはやや薄い親子関係だったと史実的に評価されている。つまり母は産んだ時から愛情を持ち息子の行く末を案じているだけの愛情は維持し続けているが、一方家康は愛情が育まれこれから母子の絆を築く頃に引き離されていることから母ほどの思いは無いのだ。
しかし家康は母に対して感情的な距離はありつつも、強い敬意と配慮を持って接してる。特に晩年は母を丁重に扱い、生活を保障し、位のある待遇を与えている。なぜそのような考えに至ったかを少し考えてみる。私が思うに母との別離が家康の性格形成に大きく影響し、感情を表に出さない慎重さで物事を思考し考えをまとめる力と人をすぐには信用しない用心深さが世の中の動向や人の動きを精査し考える力を得た。そのような人となりでこれまでの自分に対する母の心遣いを評価していたのではないだろうか。もしこれが家康が織田信長のような気性であれば、母と異父兄弟諸共命はなかったであろう。また家康の特質していることは長期的に耐える忍耐力である。その一端が母を非常に手厚く遇し、異父兄弟を重用したことである。つまり家康は天下人へと成長する中で母と異父弟たを政治的に取り込むという戦略も発動したのである。目先の事や感情に流されず、「鳴くまで待とうホトトギス」と言われる忍耐力のある性格が母への評価となったのはいうまでもない。
於大の方がどのような戦乱の時であっても幼き頃に別れた我が子を常に心に留めていた事実もまた家康の心を突き動かしていたと言える。そしてこの於大の方の母としての強さを示すエピソードを紹介しておこう。
織田信長亡き後、豊臣秀吉と家康が一戰交え勝利するも、秀吉の巧みな和平交渉により勝利した側の家康から秀吉側に人質を出せというなんとも筋違いの要求が出された。そこで人質に要求されたのが、於大の方息子松平定勝である。その話を聞いた母於大の方は家康が驚いて引くぐらいの猛烈な反対の意思を示され尚且つ母於大の方の怒りに圧倒さ松平定勝を人質にすることを断念し、実子である結城秀康を豊臣に差し出したのである。
家康は人質に出された立場であり、自分自身もこのように母が反対していれば人質に出されることはなかったと思わなかったのであろうか?そんなことを考えてしまうが、於大の方の立場を考えると、家康を手放したような思いは二度とごめんだと強く思っての行動であ離、その思いを家康は感じ取ったのではないだろう。家康と離れた於大の方は19歳。何十年も息子の事を案じ続け、やっと家康が天下を取る一歩前で共に過ごす時間を作れるまでの時間を考えると、現代の母親が抱える思い以上の艱難辛苦があったことは確かである。
時代的にも情よりも現実を共有した戦国の母子関係であったととはいえ、母於大の方の強い愛情は、母に対しての愛情を感じることが希薄な家康の心に届いていた。だからこそ敬意と実利が中心の母息子であっても共に尊重しあえる関係を保てたのであろう。
於大の方、時代に翻弄されながらも自身の子供を守るという固い決意は見習うべき母像である。
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