偉人『ダグラス・マッカーサー No.3自己プロデュース力』

またまたダグラス・マッカーサーかとお思いの方もおられるだろうが、今回で彼の記事は完結となるためお付き合いいただきたい。歴史上でもかなり突出している自己プロデュース力に長けている人物といえば、英雄・カリスマを作る ナポレオン、異端・革新者として見せる 織田信長、能力を売り込む レオナルド・ダ・ヴィンチ、自分自身をブランド化 したココ・シャネル、世界観まで演出する スティーブ・ジョブズ、人間関係と物語を利用する 豊臣秀吉といるが、すでに彼らを記事化してしまったため、ダグラスを再指名することにした。


ダグラスは単に派手な格好をしただけの人物ではない。実際の軍事的成果があったからこそ、あの帽子とパイプが「コスプレ」ではなく「マッカーサーというブランドの象徴」になったわけである。ただし彼は「自分は特別で価値のある存在だ」という意識のナルシシズムに溺れていたわけでもない。自分自身を一つのブランドとして設計し、それを軍事・政治・メディア戦略に組み込んだことが特出しているのだ。しかし一挙に全てのプロデュースを発動したわけではなく、以下の順で進めていったのである。では1つずつ見ていこう。


1、「見た瞬間に分かる人」になった

マッカーサーは、服装や小道具を徹底して記号化している。日本人にとって彼を一言二言で容姿の特徴を列記せよと言われたら、真っ先に以下の言葉が出てくるだろう。特徴的な帽子、サングラス、開襟のカーキ服、杖、巨大なコーンパイプだ。端的に言えばマッカーサーのあの格好は、単なる「変わった趣味」ではなく、自分自身を一目で分かる英雄・最高司令官として演出するための視覚的な物であり、マッカーサーといえばを記号化した。例えば特徴的な潰したようなカーキ色のフィールド・キャップは、通常の軍人の帽子よりかなり個性的で帽子に金色の装飾を加えたスタイルが彼のトレードマークとなった。印刷物でのダグラス・マッカーサーとシルエットでわかるのはあのフィールド・キャップにも関係している。

次に サングラスは実用性もあったがそれ以上に大きかったのが、目や表情を隠す黒いアビエーター・サングラスをかけることによって「何を考えているのか分からない、冷静で威厳のある司令官」という印象を作ることにうって付けであった。また巨大なコーンパイプは特に重要なアイテムで、彼はこのパイプを自分で細かく仕様指定して作らせていた。実際には吸いにくかったため普段用には別のパイプも使っていたというから、徹底的に演出にこだわっていたことが分かる。ちなみに杖は単なる補助具というより身振りを含めた演出として機能した面があり、開襟のカーキ服は机の前に座っている将軍ではなく「前線にいる将軍」という印象を作れたからだと言われている。彼は「自分を格好よく見せた」のではなく、「写真一枚で自分が誰なのか、何者なのか、どんな人物なのかを伝える」ことまで設計したのだ。つまり自分をどう見せるかを意識的に作る自己演出をしていたのである。




2. 「言葉」より「物語」を作った

フィリピンから撤退するときの、彼が放った「I shall return(私は帰ってくる)」はアーノルド・シュワルツェネッガー作品の『ターミネーター』の有名なセリフ「I'll be back.」とよく比較されるが、映画とは意味合いが大きく異なり、単純に「再上陸を目指す」と軍事的に説明するのではなく、自分自身を「帰還する英雄」という物語の主人公にした言葉である。

日本軍にフィリピンから追われ「I shall return」と宣言し、実際に数年後、フィリピンへ戻っり、その時に特徴的な帽子・サングラス・パイプ姿で上陸し、その姿が写真やニュースで世界中に伝わるという一連の流れができた。結果として、本人のイメージと戦争の物語が完全に結びつき、「戦場を動かすだけの人物だけでなく、人々の認識を形成する」ことを意識していたと分析している。つまり「私はこういう人間である」と説明するのではなく、後から人々が語りたくなる物語を作ったという点もこれまた秀でた自己プロデュース力である。これが彼に関する「言葉より物語を作った」という表現の核心である。



3. メディアを「敵」ではなく「自分の拡声器」にした

彼は新聞や写真を自分を批判するものとして警戒するのではなく、自分の姿や考えを世の中に広めるための道具として利用した。一般的な軍人なら、記者やカメラマンに対して「軍事情報を勝手に報道されたら困る」と考えるが、彼は軍事上の情報統制はしつつ、自分がどう写るか、どう報道されるかということを非常に意識していたようである。彼自身が外部に向けて何かを発言することは少なく、カメラマンが彼の特徴的な姿を撮影すれば、新聞報道になり、世の中の人が見るという仕組みを利用しただけである。つまり自分の声を直接大勢の人に届けるのではなく、メディアを通して自分の姿・言葉・物語を何百万人にも届けたという自己プロデュースを行なった。ここがマッカーサーの自己プロデュースの面白いところで、「何を言うか」だけではなく、「どう撮られるか」まで含めて自分を演出していたと考えると分かりやすい。ここが彼なりに現代的な考え方を何十年も先に実行していたのだ。彼は第一次大戦前後から広報の重要性を理解しており、1915年には陸軍初の広報担当者になり、さらに後には専任のPRスタッフを使って自分のイメージを積極的に形成していた。第二次大戦中には、司令部から出すプレスリリースも非常に慎重にコントロールされ、1941年12月から1942年3月までにマッカーサー司令部が出した142本のプレスリリースのうち、109本が個人名としてマッカーサーだけを取り上げていたのである。ニュースが起きる から報道されるのではなく、ニュースをどういう物語として報道させるか、世間がその物語をどう共有するという発想につなげていたということだ。ダグラス・マッカーサーの時代は「メディアに自分を紹介してもらう」という戦術だった時代から現代のメディア戦術は「自分で発信し、その発信をメディアやSNSに拡散させる」というもので、現代の自己プロデュースを考えるなら、単に「自分をよく見せる」というよりは、人が覚えやすいキャラクターを作る、物語を作る、発信する、話題にする、他人に語ってもらうという一連の仕組みを作ることが彼の人生から見ても重要かもしれない。



4. 「登場シーン」まで演出した

私達日本人にとっての彼の記憶といえば、日本占領時の有名な厚木飛行場到着のシーンではないだろうか。その様子は何度見ても映画的である。1945年8月30日には厚木に到着。サングラスをかけ、コーンパイプをくわえ、飛行機のタラップ上で写真を撮られることになった。日本人が初めて目にする「新しい権力者」として非常に強烈な第一印象を残した。その印象に我が父は「これから日本はどうなるのだろうかと戦々恐々だった」と語っていた。降伏から2週間という短い時間で日本に降りたった彼の姿は、戦勝国の代表としての大柄な体格とサングラスをかけて表情を窺えないことに冷酷さを感じたという。子供でだった父から見てもそのように感じたのであるから、大人はさぞかし背筋が凍る思いをしたであろう。これも彼にとっては演出であったことが後々わかっている。日本統治で「何をするか」を見極めた上で「どう登場するか」まで考えていたのである。現代のインフルエンサーや経営者であれば初登場の写真やSNSのプロフィール写真、服装、決め台詞、背景、カメラアングルまで一貫させるようなものだったに違いない。彼にとっての演出は全て仕事上に直結するものであり、必要不可欠な戦略であったと言える。



5. 「本人」と「役柄」をほぼ同一化した

これまでのマッカーサー記事、偉人『ダグラス・マッカーサー No.1』(記事はこちら)、偉人『ダグラス・マッカーサー No.2 失敗』(記事はこちら)からもわかるように、彼は自分を単なる軍人としてではなく、「偉大な軍人」「太平洋の英雄」「日本を再建する指導者」という役柄に自分自身を仕立ててきた。しかもその役柄を本人自身がかなり強く信じていたのである。それが彼の凄さであり、同時に弱点でもあった。彼は自信に満ち溢れ、自己演出を図り、使命感で心を燃やし、プライドが非常に高く上官との衝突も多く朝鮮戦争ではトルーマン大統領と対立し解任されている。のちに行われたPBSの分析でも彼の長所と短所が表裏一体だったことが指摘されている。つまり彼の失敗から考察すると、自己プロデュース力が強すぎれば「演じている自分」を軌道修正できなくなる。これがダグラス・マッカーサーから学べる重要なところである。

彼の自己プロデュース力は、「自分を有名にする・目立たせる能力」ではなく、「自分の存在そのものを、他人が理解しやすい物語・記号・キャラクターに変換する能力」だったと言えるだろう。そして特に重要なのは、実力から演出に移行させたではなく「実力、演出、物語性、メディア戦略」全てを掛け合わせたことの延長線上に自分自身がしっかりと存在することであったに違いない。単に派手な格好をしただけの人物ではなく、実際の軍事的成果があったからこそ「マッカーサーというブランドの象徴」になったわけである。


ダグラス・マッカーサーは、我々現代人から見ても今まさに彼の長所だけは、現代に通用する人物であることは間違いなさそうである。教育や子育てに自己プロデュース力を育ませるとするならば、皆さんはどのような働きかけをすればいいのであろうか。来週月曜日の提案記事『自己プロデュース力 No.2』も併せてお読みいただければ幸いである。

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