偉人『灰谷健次郎』

今週日曜の絵本『ろくべえまってろよ』(記事はこちら)の作者である灰谷健次郎を今回は取り上げる。灰谷健次郎は1934年に神戸で生まれ、17年間学校教師を務めた後、沖縄やアジアを旅し作家として本格的に活動した人物である。私の灰谷健次郎の思い出といえば小学校の時に見た舞台『太陽の子(てだのふあ)』、その次に父に読んでもらった『兎の眼』、そして少年法によって氏名や顔写真などが原則として公表されていなかった当時、神戸児童殺傷事件の犯人の少年の顔写真を実名同様に社会へさらすことに強く反対したことも強く印象に残っている。凶悪で残忍極まりないその事件の犯人を少年という一面的な見方だけではなく、「その少年もまた、どのような環境の中で育った一人の子どもなのか」という視点が彼には重要だったのではないだろうか。彼が教育者であったからこそのものの見方が大きく影響していることは言うまでもない。今回は子供の立場に立って物事を捉えることができた彼について解釈を深めてみようではないか。

灰谷健次郎の人生は大きく3つに分かれ、その時々の環境が彼の人生に大きな影響を受けたと言える。まず1つ目の幼少期に焦点を当ててみる。1934年10月31日に神戸で7人兄弟の三男として誕生。父は三菱神戸造船所の旋盤工で、「赤貧」と表現されるほど厳しい生活を送っていたようである。当時の神戸には港町として華やかな地域がある一方、彼が育った貧しい人々が暮らす下町もあり、後の『太陽の子』の舞台となる神戸の下町の描写には、灰谷自身が育った神戸の記憶が反映されている。中学を卒業した時点で普通に高校へ進学するという選択肢は家庭の経済状況から見て難しかったようである。ある灰谷の評伝では、「高校に行きたかったが、ハナから問題外」だったと語り、中学卒業後、ゴム工場、港湾労働、菓子職人見習い、溶接工など、さまざまな仕事を経験したようだ。勉強が嫌いで進学ができなかったのとは違い、学びたい気持ちがあっても家が貧しく働いて家計を支える必要があったという事情が大きかった。ところがそれでは終わらなかったのである。ここが灰谷の人生で非常に興味深いところである。彼は定時制高校に進学し、自分と同じように昼間働きながら学ぶ人たちと出会い、年上の同級生も多く仕事や貧困、恋愛、政治、人生について語り合うような環境だったと言われている。そしてその経験の先に大阪学芸大学(現在の大阪教育大学)への進学を果たした。つまり灰谷の学歴はかなり異色で、中学校卒業に働きながら定時制高校に通った。

大学へ進学しその時から文学や詩に関心を持ち、詩誌「輪」の同人になったほか、児童詩誌「きりん」にも関わり、教師になる前から子どもの言葉や詩を大切にする文学活動を始めていたのである。その後教鞭を17年間取る中で、学校に馴染めない子、勉強についていけない子、家庭に問題を抱えている子、貧しい家庭の子、障害のある子、他人とうまく関われない子など、まざまな子供達の姿を見つめ、子供を内側から見続けた。つまり子供を問題のある困った子供という見方ではなく、「この子は、なぜこういう行動をとるのだろう?」「何がそうさせているのか」というその子自身の環境をまず読み込んで、その後に子供の側から物事を見て、子供を変えようとするのではなく、大人の方が子供を理解することに力を注いだのだ。

灰谷の作品を読んでいると一貫しているものがある。それは、大人の都合から子供を見るのではなく、子供の目から大人の世界を見るという視点であり、彼の素の姿勢である。どうしても我々大人は大人目線で子供を見るということを行いがちで、尚且つ大人の物差しで子供を図りがちでもあり、更に大人の考え方で子供を動かしたくなるものである。ところが灰谷健次郎という人物は、子供目線で大人や社会を見るという方向に視点を置き換えることに徹している。彼の視点で物事を見始めると、今まで「当たり前」だったものが違って見え、「大人にとって当たり前のことが、子供や大人という区分け無しに本当に人間にとって正しいものなのか?」という疑問が生まれる。私の経験を思い起こせば校則という名の下に、本当に必要なことなのか??と思われることも山ほどあった。例えば私の母校だと髪の毛の長さ、靴下の長さや刺繍の有無、生徒手帳の形態義務、制服の長さなど今考えてみても理解し難いものばかりである。服装の乱れが生活の乱れになるという考え方かもしれないが、子供心に制服で統一しようとするから違反者を取り締まる労力が生まれ、生徒と教師の間に亀裂が入るのであり、そんな労力を使う必要性を疑い続け、いっその事制服を廃止すると決断できる大人はいないのかと考えた中学時代であった。さらに私がげんなりしたのは、生徒の机の中をチェックする担任の職員室の席を見た時である。机の周りや椅子の後ろには山ほどの物が乱雑に積み置かれ、「この矛盾は一体なんであろうか?」「大人になれば正当化できる理由があれば、自分自身のことをさておき、なんでも実行して良いのかそれが許されるのか」と大人の建前のもとに実行されている矛盾に違和感を感じた。皆さんもお分かりであろうが、私は子供の頃から大人や子供の不条理や矛盾点など色々見る環境下にあった。そこでなんでも父に疑問に思うことを相談していたのである。その時に父が持ち出して渡してくれた長い小説が『兎の眼』である。当時の私は母の厳しい教育や躾、そして学校での揺れ動く思春期の同級生や高圧的に生徒を押し込めようとする教師達、また当時全国放送で報道される学校荒廃の日々に嫌気がさしていた。私のこのような思いを見透かし察して父は『兎の眼』を手渡したのだろうと思う。この作品の主題を一言でまとめると「人間を外から決めつけず、その人の内側から理解すること」であり、そのことを父は私に伝えたかったのであろう。灰谷健次郎と父は同じ歳であり、第二次世界大戦で人と人が争う先にあるものの虚しさを痛いほど経験していたからこそ、人と対立することよりも相手や相手の置かれた状況を理解することを人生の指針にしていたのだと考える。学校で問題児とされる子供達をどう理解するのか、戦さの記憶や差別、偏見などに苦しむ弱い立場の存在を広い視点で一度見直してみようと灰谷はしていただ。

それではまとめに入ろう。

現代では人間の命も動物の命も同じ尊い命であると世間一般的な常識として言われているが、灰谷健次郎は戦争体験を通して、人間の命は、社会の都合によって簡単に扱われてしまい、戦争という過酷な状況下においては人の命は平等ではないことを痛感しているからこそ、子供や弱き人々や不条理の中で苦しんでいる人々の立場に立って物事を考えることに徹していたのである。灰谷が後に、社会の中で声を上げにくい子供達を繰り返し描いたことを考えると、「力を持っている側ではなく、力を持たない側から社会を見る」という姿勢もまた戦争体験が背景にあったと考えるべきである。そして先述と重複するが灰谷文学では「人間にとって、本当に大切なものは何なのか」という問いが強く、お金や学歴、社会的な評価ではなく、他人の痛みを感じること、自分とは違う人を理解しようとすること、子供の尊厳を守ること、命を軽く扱わないこと、弱い立場の人を切り捨てないこと」が軸になっている。つまりこれまでの偉人と同じように、子供の頃からの体験がその人を作るベースになっていることを彼もまた証明している。

そして彼の教師としての17年間も彼を形成した。彼の作品から見ると問題児と言われる子供を変えようとした。しかし彼はあるとき気づいたのである。「問題児」の中に、教師には見えていない世界があること、そして「教育する側」と「教育される側」が逆転し子供達から学べることがあることにも気付く。そして大人が価値がないと思っているところに、子供の価値が隠れていることがあり、「できない子」ではなく「その子供の中にまだ見つかっていない価値のあるものが存在する」ことにも気づけた。そして彼は17年間の教師生活の中で、「子供には大人の予想を超えるものがある」と確信していた。そうでなければ彼の子供に対する思いは一本筋の通ったものにはならないであろう。その裏付けで彼は「教師も成長する」という思想を持てたと言える。例えば彼の作品である「兎の眼」に出てくる場面で、美しい仏像の目を見ていると「兎の眼」のような無垢さ、やさしさ、静かな光があり、子供達の中にもそれを見出し、大人が社会的な評価を取り払って人間を見るときに初めて見えてくる人間の奥にある尊厳や生命力を彼は知っていたに違いない。

そしてこの記事の冒頭でも記した神戸児童殺傷事件では難しさも感じていたであろう。週刊誌に少年の顔写真が掲載されたとき、何の調べも裁判も行われていない段階で「凶悪な少年」という社会的なラベルを少年に貼ることに反対したのではないだろうか。事件当初、人間の心理として問題を起こした少年の顔を見てみたいという衝動はあるかもしれぬが、やはり更生ありきをを考えると掲載はしてはならぬことだったように思う。が残念ながらこの事件を起こした少年は出所後、関係者に居場所を伝えることなく姿を消し、遺族への連絡もないという。そこに子供が関わる事件のみならず罪を犯した者を理解する難しさがあるが、この事件の写真掲載に関していうと、一個人が、一編集部が、一出版社が、法の枠を超えていると判断する権利も権限もなく、勝手に行動を起こしてはならない問題ではないだろうか。遺族も加害者を理解しようと苦悩しながら長い年月を重ねて歩み寄ろうとするも、どうにもならない状況下でおられることを考えると、子供の教育というものは家庭のみならず、多くの良質な大人の目で子供を見守る重要性を痛感してしまう事件である。もし灰谷健次郎がこの加害者に関わることができたなら、何が変わっていたであろうか。





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