偉人『ビリー・ジーン・キング』

「秋といえば・・・」で続く言葉を考えてみた。読書の秋、芸術の秋、行楽の秋、食欲の秋など様々あるが、今回はスポーツの秋から『ビリー・ジーン・キング』を取り上げる。ビリー・ジーン・キングは、世界トップクラスのテニス選手でありながら、女性の権利と男女平等のため賞金格差をなくそうと闘った女性初のテニスプレーヤーである。なぜビリー・ジーン・キング が男女格差のあるテニス界で最初に声を上げ、立ち上がることができたのかを考えてみる。

1943年11月22日、アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチで消防士の父ビル・モフィットと専業主婦の母ベティとの間の第一子として誕生。父はスポーツに親しみ母は優れた水泳選手で、弟のランディは後にメジャーリーグの投手として活躍した。ビリー・ジーンは特権的な富裕層の家庭ではなく、ごく一般的なスポーツを愛する中流以下の家庭で育ち、子供の頃はバスケットボールやソフトボールに熱中になり、11歳の頃にテニスと出会い夢中になった。しかし当時テニスはカントリークラブを中心とするスポーツで、比較的裕福な人々に親しまれていた。ここで補足しておくとカントリークラブとは、富裕層や社会的地位の高い人たちが集まる会員制の高級社交施設のことだ。日本でいうところの東京アメリカンクラブだ。

ビリー・ジーンにとって裕福層が行うテニスを続けるお金があったわけではなく、彼女は近所の手伝いなどでお金を貯め、初めてのラケットを自分で購入し、地元の公営コートで無料のレッスンを受ける機会を得流までにかなりの努力を要したのである。つまり経済的な制約があっても、彼女は自らの努力と地域の支援によって道を切り開いた。この経験が彼女の人生を考える上で重要で、テニスへの情熱だけでなく、経済的な制約を乗り越える努力ももまた必要な状況があった。


一方家庭ではどうだったのか。興味深いのは、両親が彼女と弟のスポーツへの挑戦を支え、比較的平等に接していたことである。ビリー・ジーン自身も両親が自分たちの可能性を頭ごなしに制限しなかったことを振り返っている。もし私が親で経済的に厳しい状況にあったのなら、金銭のかかることをどこまで応援できるのかと考え込んでしまう。子供自身が自分の力でやり続けようとするならばビリー・ジーンの両親が行ったように見守り続けたかもしれない。とはいえ両親があらゆる面で進歩的だったわけではなく、母親は女性らしい振る舞いについての伝統的な考え方があり、こんなエピソードがある。近所の男の子たちとフットボールをしていたとき、母のベティは彼女を家の中に呼び戻し、「いつでもレディらしく振る舞わなければいけない」という趣旨のことを伝えた。母ベティはウエストを絞ったドレスを着こなし、髪や化粧をきちんと整える当時の女性らしい装いを大切にしており、また母親は主に家庭を担い、父親を支える役割を果たしていました。母親自身も女性の幸せは結婚と子育てにあるという当時一般的だった考え方を強く受け入れていた。母ベティは娘を愛し夢を応援していても、女性は女性らしくあるべきだという考え方を持っていたのである。

また父親のビルは稼ぎ手であり、重要な決定を下す立場にあった。母ベティも自分の意見を持っていたが、父親のほうが強く意見を主張する存在だった。当時のアメリカで広く見られた「男性は家族を養い、家庭を率いる。女性は家庭を守り、夫を支える」という性別役割分担が存在していた。毎晩夕方5時30分に夕食を取るという厳格な習慣があり、父親はそれが守られないと激しく怒ることがあったそうである。一方、母親は同じ夕食の習慣を、家族が話し合い、親密さを深める大切な時間としていた。同じ家庭のルールでも、父親は規律を、母親は家族の結びつきとして捉えていた。また宗教や社会規範を重視していた家庭でもある。父親については、保守的な政治観や愛国主義を持ち、同性愛など当時の一般的な規範から外れると考えられたことに強い否定的態度を示していたようである。この点は、後に自分の性的指向と向き合うことになったビリー・ジーンにとって、家族に本当の自分を打ち明けることを難しくする社会的・家庭的背景の一つだったと考えらる。


では、なぜ両親は娘のテニスを応援したのか?ここが最も興味深いところである。

両親は伝統的な価値観を持ちながらも、娘ビリー・ジーンが大きな夢を持つことを認め、やりたいことに挑戦する余地を与えてくれた。ただし、当時の考え方ではテニスは野球やフットボールなどよりも女性にふさわしいと受け止められており、実際、ビリー・ジーンが父親に「女の子にはどのスポーツがよいか」と尋ねた際、父親は水泳、ゴルフ、テニスを挙げている。つまり、娘のスポーツへの情熱を認めることと、女性には女性に適した活動があると考えることが同時に成立していた家庭である。



ここからは単純に「進歩的な家庭」でも「厳格で保守的な家庭」でもない環境で育ったビリー・ジーンが、周囲が全員黙っている状況でなぜ男女同等の権利と男女間での賞金格差を訴える行動の担い手になったのかを考えてみよう。ベリー・ジーンの3つの心理的な違いが関係していると考え、そのことを論じていく。


① 周囲の反応より、自分が見た事実や受けた事実を重視する

多くの人は自分の判断を下すとき、周囲の反応を参考にする傾向がある。それ自体は社会生活を営む上で合理的なことであるが、最初に声を上げる人は周囲がどう反応しているかとは関係なく、自分が実際に見たことや経験したことを判断材料にできる力があり、ビリー・ジーンにも自分が見た事実や受けた事実を重視するその心理が働いていたはずである。

実際ビリー・ジーンは12歳のとき、テニス大会で女子選手はテニススカートを着るという慣習があり、ショーツを着ていた彼女は大会関係者の指示でジュニア選手の集合写真に入れてもらえなかった。女性らしい服装を求めるルールに直面した。ビリー・ジーンの回想によると、そのとき抱いたのは驚きや悔しさ、そして「なぜこんな決まりがあるのか」という疑問であったようだ。この経験は彼女の心に強く残り、「実力ではなく、女性に求められる外見や慣習によって排除されるのはおかしい」という思いを強め、母親もこの出来事に憤ったと言われている。彼女がナンバーワンの選手になりたいという決意をさらに強めるきっかけになったのではないだろうか。おそらく彼女はただ傷ついただけではなく、不公平な扱いを受けた経験を「自分が成功して、この世界を変えたい」という意欲につなげていったと考えていいのではないだろうか。

この経験以外にも似たような経験があり、周囲が「昔からそうだから」「女性とはそういうものだから」と受け入れていた考え方に彼女が疑問を持ち、「みんなが当たり前だと思っていることでも、不公平な人がいるなら変える必要がある」と行動で示した人物だと言える。



② 不快な感情から逃げずにいられる

ビリー・ジーンは不公平に気づいたとき、ただ不満を口にするのではなく、仲間を集め、交渉し、実際に制度を変える行動を起こしている。具体的には9人の女子選手と新しいツアーを立ち上げたり、男女の賞金格差に抗議したり、女子選手が団結できる組織をつくったり、男性選手との試合で女性への偏見に挑戦したりしている。ビリー・ジーンが不安を抱えながらも行動できたのは、「変えたいという強い思い」「自分の実力への自信」「仲間との協力」「行動するための工夫」 があったからだと考えられる。彼女にとって不公平は単なる社会の問題ではなく、自分が実際に目にし直面した経験だからである。そしてこれらの行動に共通していることは、不安がなくなるまで待つのではなく、不公平に気づいたら、仲間を集め、具体的な要求を伝え、資金や組織など実現するための手段を探し、目標が実現するまで働きかけることであった。彼女は恐怖や不満を感じるだけで終わらせず、状況を変えるために具体的な行動に移したのだ。後に彼女は「世界一の選手になれば、自分の声を聞いてもらえる」と考え、実際にトップ選手になったことで、主催者やスポンサーに働きかける影響力を得ている。つまり、ただ不満を口にするのではなく、自分の強みを使えば変化を起こせると考えていたのである。私達の日常でも何か感じることがあれば、すぐに大勢の前で反論する必要はなく、まず事実を確かめ、信頼できる人に相談し、改善してほしい点を具体的に伝える。そうした小さな行動も状況を変えるための大切な一歩になるのではないだろうか。




③ 「自分だけではない」と気づき、一人で戦おうとしない

最初の一人が声を上げると、それまで黙っていた人が「実は自分もおかしいと思っていた」と話し始めることがある。本当はみんなが同じように疑問や不満を持っているのに、「自分以外はみんな賛成している」と勘違いしてしまう多元的無知に陥っていた場合には、それが如実に出てくることがある。そして残念ながら一人ひとりが不公平を感じていても、「自分だけが声を上げても変わらない」と考えれば、状況は変わらない。しかし、誰かが声を上げることで、他の人も自分の考えを表明し協力できるようになる。声を上げるためには仲間がいると心強い。しかし、仲間がいることを知るためには、誰かが最初に声を上げなければならないことがある。だからこそ、最初に発言する人の存在には意味があるのだろう。つまり、最初の一人の発言は単に一つの意見を出すことではない。それまで隠されていたほかの人の意見が表に出るきっかけになる可能性があるのだ。では、ビリー・ジーン・キングは何が違ったのか?

不公平を具体的な問題として捉えたこと、女子選手の賞金格差を変えるべき制度上の問題として扱ったこと、自分だけで闘おうとしなかった、発言を制度の変化につなげたことである。


ではまとめに入ろう。

ビリージーンのように声を上げられる人になるには、何を鍛えればいいのかである。

まず1つ目は、自分の違和感を言葉にすることだ。「なんとなく嫌だ」と感じたときに、「なんとなく嫌だ」で止めず、その気持ちを具体的な言葉にして、何が問題なのかを整理することだ。つまり大切なことは、違和感をそのまま飲み込むのでも、感情だけで相手を批判するのでもなく、「何が起きたのか」「自分はどう感じたのか」「なぜ問題だと思うのか」を整理することである。そうすれば自分の考えに根拠を持って、落ち着いて声を上げやすくなり、自分自身がどうすれば良いのかが見えてくるだろう。大切なのは相手の反応だけで自分の意見を変えず、根拠のある反論があれば素直に見直すことである。つまり、周りに合わせるのではなく、相手の意見にも耳を傾けながら、自分の考えが正しかをを判断するということである。

3つ目は沈黙するか、正面から闘うかという二択にしないことである。これは私の立場からすると沈黙するとその日びおの本心が見えないことがあり、互いに分かり合うチャンスを逃すことになる。そして正面切って反論する場合には花火が散り、同じ目的でもあっても相容れなくなってしまうのだ。そうならないように互いに意見を出し合い、質問し、個別に考えを伝え合い、記録を残し、信頼できる人と相談することが必要である。声の上げ方にはさまざまな方法が、安全性や立場に応じて方法を選ぶことも勇気の一部である。

「ビリー・ジーンがなぜ勇敢だったのか」ではなく、むしろ何かを失うことよりも、何を見過ごすことのほうが耐え難いと感じ立ち上がったのではないだろうかと考えることが、深いところで物事を捉えることができるのではないだろうか。

例えばある人にとっては、仲間からの信頼を失うことが最も怖いかもしれない。別の人にとっては、不公平を見過ごした自分を、後から許せなくなることのほうが怖いのかもしれない。この違いは、人が何を大切にしているのか、どんな経験をしてきたのか、どのような責任を感じているのかによって変わるが、常に自分の中にある意見に素直に向き合うことである。

例えば先日このような相談を受けた。子供のいたずらでクラスメートに怪我をさせてしまい、ママ友との関係が拗れてしまったというのである。間に教師が入ったとしても、怪我が軽かったとしても、その事実を知った段階で直ぐに謝罪をすべきであり、そのタイミングが遅れたら印象が悪くなるのも仕方がない。また相手から謝罪を拒まれても相手の負担にならない程度の謝罪は必要である。その一方怪我をしてしまった側は、自分の子供に非がなかったかを聞き取っておく必要があり、危機管理や安全管理の教育を施しておく必要がある。怪我をする側だったとしても被害者意識を育てるだけでは、単なる事故になってしまう。私は子供の頃から、アクシデントはどのような立場においても学びになり、『タダでは立ち上がるな』と教えられてきた。つまりそのアクシデントは自分自身に何かを教えるチャンスとして発生したのかを考えよということである。ビリー・ジーン・キングの生き方を考える上でも、ここが重要である。彼女の行動を理解することは、単に勇敢な人物を称賛することではなく、人が自分の利益や周囲への同調を超えて行動するとき、何がその人を動かすのかを考えることである。

そう考えると彼女の素晴らしさは、強い人だったことだけではなく、自分が感じた違和感を社会を少しでもよくするための行動に変えたことである。自分が批判を受けるかもしれぬ、損をするかもしれない、周囲から嫌われるかもしれない。それでも、誰かが不公平な扱いを受けているなら見過ごさずに行動する。他人に勝つ強さだけでなく、自分の信念を持ちその信念に正直であり、他人の尊厳を守るために自分自身を使う強さがあった。


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