偉人『徳川吉宗』

「お主、何ものじゃ!」

「余の顔を見忘れたか」

「えぇーい、このような所に上様がおられるはずがない。者共、であえ、であえ・・・」

時代劇『暴れん坊将軍』の名台詞の掛け合いである。

年齢が明らかになりそうだが、私の幼少期はゴールデンタイムが時代劇。詰まらないな・・・と感じながらも大人の視聴に付き合っていると何かしら学ぶものである。

口語台詞がドストライクだった。教養が無いと言われかねないが、我が歴史への興味好奇心はお茶の間の時代劇から出発している。

暴れん坊将軍、米将軍、八十八将軍、8代将軍徳川吉宗。

徳川の将軍の中でも評価の高い人物だ。

父は紀州藩2代藩主光貞、その四男である。

彼の母は父の湯殿番で身分が低かった。

当時父が高齢だと子が育たぬとして、養子に出す慣例があり彼もまた家臣の養子として育てられた。がしかし時代劇のタイトルになるくらい幼少期は暴れん坊だったという。

普通では将軍に成り得ない吉宗が、柔軟な発想で時代を牽引したのはなぜか、彼の幼少期から紐解いてみよう。

幼少期の彼は、勤勉家で学問、武芸、芸術に優れた文武両道だったという。

しかし紀州藩の四男であり、将軍になるべく必要な儒学などの帝王学的教育は一切受けておらず、苦手であったとされている。

新物好きの好奇心旺盛で、何をするにも理論派の人物であった。

もし彼が帝王学的教育を受けていたら、幕政改革のための質実倹約、庶民の声を聞く目安箱の設置、有能な人物登用の足高の制、小石川養生所の設置、大奥の減員など考えもしなかっただろう。

様々な彼の享保の改革は、紀州藩の四男として生れ落ちた型にはまらない自由な立場から生まれたと考える。また彼の興味や好奇心、自らなんでも実践したがる一面もその立場だからこその賜物であったろう。

江戸城で火事が発生した時も先頭を切って火消しをしたといわれ、どんな立場になろうともお膳立てなしの環境で育った育ちはいざというときには出現するものだ。『やーなれーふかなれー』なのだ。


これまでの経験から子供達と偉人がオーバーラップする事がある。

徳川吉宗と重なる子供はというと、

一人遊びをいろいろな発想で黙々と行い、先ず何でも自分で実践したがる子であり、話をするときには理路整然と順序だてて話す子である。

自分の考えを言えるということはよく考えている証。

自分よがりの遊びではなく、周りも巻き込んで提案して遊びを作り上げる子だ。


このようなお子さんのご家庭に共通することは、躾けはしっかりしている。

そして子供の成長を確りと見ている。

乳児期を遡ると親子のスキンシップは十分すぎるほど実践し、目を合わせて話をしていることが多い。アイコンタクトの重要性を痛切に感じる。


どうぞお子さんと見つめあい語らって、柔軟性のある子育てをしてください。

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