偉人『クロード・モネ』
フランス印象派画家『クロード・モネ』。彼は光が刻々と変化する風景を追い求め、その描写を何枚も何枚も描き続けた画家であり、浮世絵に多大なる影響を受け日本をこよなく愛したガーデナーとしての一面もある人物である。
今回は先出のゴッホ以上に苦労をしながらも人生の後半までしっかりと画家として活動を成し遂げたモネのメンタルの強さはどこで培われたのかを考え、忍耐強い子に育てるヒントにして欲しい。
本名はオスカール=クロード・モネ、1840年フランス・パリ生まれ。父は小さな雑貨店を営み、母は歌手であった。彼が5歳の頃ノルマンディーの港町のル・アブールへ移住し少年期を過ごす。ル・アブールは今でこそ整備され港湾都市として有名であるが、モネの時代は戸外に出れば自然豊かな港町であった。
彼自身が少年期について回想している。
「私は生まれた頃からきかん坊であった。誰も私をどのような規律にも従わせることができなかった。私が学んだ僅かなことはみんな一人で学んだのだ。外には親しげに太陽が輝き、美しい海が広がっていて澄んだ空気の中で海辺を走り回り、水の中に飛び込んだりできるのに4時間もじっくりと座っていることなどとても私にはできなかった。」
要するに学校に通うことが好きではなかった自由人である。幼い頃からもう既に印象派の道を歩むべくして過ごしていたとしか思えない。10歳で教師らのカリカチュアルを描き、15歳で父の店で販売するほどになっていた。そんな作品が画家のブータンの目に留まり彼の熱心な誘いで戸外に出て描くことの手解きを受ける。16歳で母を亡くし、画家の道を進むことを父に反対されるが、裕福な叔母の後押しもあり絵画の世界へ進むことを自ら決断したのである。
パリでアカデミックな絵画の学びを断ち、自由な技法を学べる画塾へと進むことを自ら決断した。そこでのちの印象派グループのメンバーとなるルノワールやシスレー、バジール、マネなどと交流を深めた。1865年のサロン入選後は落選が続き困窮の時代が続く。実家からの仕送りで画家としての活動を維持するが、最初の妻である労働者出身の出であるとしてカミーユとの結婚に反対され仕送りがストップされる。生活費の当てが無いにも拘らずカミーユと別れない決断をした。友人らの援助で生活をするもやはり苦しく、後に妻と子の存在を家族に隠しある時は別居生活を送りながらも実家の援助を再開させ、どうにか絵画活動を維持する。今でこそ印象派は高値で取引されるが当時は認められず売れる絵ではなく、さらに印象派は戸外で絵を描くために当時開発されたばかりの高価なチューブ入り絵の具や移動のための交通費もかかるので援助生活は仕方のないことであった。
モネの作品は風景がが圧倒的に多いが、その中でも妻と子の幸せな様子を描いた作品が残されている。貧しい生活を送りながらも最愛の妻と子との生活を大事にした温かみのある作品であるが次男を出産後に最初の妻カミーユの結核が悪化し、また生活の支えであったパトロンのオシュデが破産し行方をくらましたことで、楽になりかけていた生活がまた苦境に立たされたのである。病気の妻を抱えながらオシュデの妻と子供の経済的面倒まで見ることになり、その最中に妻カミーユを亡くす。(以下の左端がモネ・カミーユ・二人の息子、右端がオシュデの妻アリスとその子供達)
彼が描いた人物画は初期のものが多く妻カミーユと息子であったが、妻の死に顔の色変化さえ見逃さず描いた。それ以来人物を描くことが急激に減り、人物を描いたたとしてもその表情は読み取れないほどの抽象的なものになり、その後彼は風景画に没頭していくのである。もうカミーユ以外の顔は描かないと決断したように。
パトロンであったオシュデの妻アリスがカミーユの看病と子供の世話を担い、カミーユの死後モネはそのアリスと再婚した。その後40代でサロンに入選し彼の作品が評価され生活にもだんだんとゆとりが生まれた。
ジヴェルニーに移り住みそこではモネがこよなく愛した日本文化を模した花や水の庭を自ら設計し睡蓮の池を作り、太鼓橋を掛け、藤棚を拵え、竹を植え、枝垂柳を池の辺に植え、食卓は大好きな歌川広重の浮世絵を掛けた。この設計を実現させるために相当苦労したようだがそれでもやり遂げると決断し奔走した。
50代で彼が取組んで行く『睡蓮』の習作は妻カミーユに対しての後悔や贖罪の念からであろう。蓮は仏教用語で一蓮托生の意味があり良くも悪しくも運命を共にする、死後に極楽で同じ蓮の上で生まれ変わるなどの意味がある。『睡蓮』はカミーユへのレクイエムであると感じざる得ない。そうでなければ見えなくなる目を酷使してまで描こうとは思わないのではないか。そして今私達が鑑賞することができるオランジェリー美術館の構想を願う発想など生まれなかったであろう。彼は自らの画家人生の終焉が『睡蓮』であることを決断をしたのである。
20~40代にかけて生活は苦しいモネだがなぜ彼が逆境に耐えられたか、それは幼少年期に好きなことに夢中になれたこと、そしてそれをやり遂げようと自分自身で道を選んだことにある。これまでの記事内容の太字で気付いたかもしれぬがモネは逆境に立たされる度に自分で決断を下している。とはいえ経済的に苦しいときには多くの援助を家族や友人知人に頼んでいる。そして周りもその相互扶助を良しとし、またその思いに応えてモネ自身が友人を助けてもいる。
彼にとって絵画は自分で選んだものであるという人生の羅針盤が存在している。だからこそ困難や苦難に遭いながらも心折れず放棄せず、逃げ出さずに立ち向かえたのであろう。また彼について友人らは人々を引っ張っていく人であり、人々の中心になるのびやかな人であると語っている。だから人々がいざというときに手を貸す人徳があったのであろう。
自分自身で選んだ道には誇りが生まれる。それに打ち込んできたという時間も労力も全てが自分のものになり、自分自身の世界になるのだと考える。
たとえ小さな子供でもその片鱗はあるもので、親が選び与えたおもちゃよりも子供自身が選んだ遊びの方が夢中になる。そして夢中で遊んだものを放り出さず、親が片付けず子供自身が後始末まですることが自分で選択し責任を取ることに通ずるのである。
このことからも分かるように自分自身で決断したことには自分で解決する方法を小さな頃から学ばせるべきである。そこを子供自身が選べず、後片付けもせず過ごすといとも簡単に自ら行動し結果を生んだにも拘らず怒りを人に向けたり、親に片付けをさせたり、挙句の果てに人のせいにすることもある。大人になってもその癖はなかなか抜けないのでそうならないために、幼い頃から自分自身で選択させ責任を取らせるかが本当に重要なのである。
クロード・モネ。彼の画家になる出発地点は育ったル・アブールの自然や町並みといった目の前にあるものを不思議がったり、面白がったり、深めたり、純粋なものを心から楽しむことであり、自然をよく観る事で養われた観察眼で人の特徴を捉える面白さなどだったに違いない。
「どうして風は吹くの?」「どうして色はたくさんあるの?」「どうして人の身体は動くの?」2歳~6歳までの子供たちの『どうして?』に向かい合い、そして子供自らの取捨選択を尊重し自己責任を取らせるための後片付けを徹底させることを意識して欲しい。そして集中して打ち込めるものを探し求め最後までやり通すことをも忘れないで欲しい。さすれば忍耐強く自らの責任で道を進む子供になると考える。
クロード・モネのメンタルの強さは幼い頃から自分自身で選択してきたことを全うする連続が、彼を忍耐強くし成功へと導いたのである。
0コメント