偉人『メアリー・ブレア』

彼女の名前をご存知だろうか。私も子供が誕生し年間パスを片手に散歩と称して頻繁にディズニーランドへ行くようになってから知った人物である。

『イッツ ア スモールワールド』の曲が流れる中、ボートに揺られながら世界一周するアトラクションのコンセプトアートを手掛けたのが彼女である。ビッグサンダー・マウンテンのようにスリルも無ければ、ホーンテッドマンションのような恐怖も無く、ミッキーのフィルハーマジックの3Dを体験することも無い地味なアトラクションだが、その中に入ってしまえばゆったりとしたボートの旅を色鮮さと可愛いデザインとが世界旅行へと誘ってくれる。

ウォルト・ディズニーに才能を認められたイラストレーター。

彼女が生まれたのは今から100年前アメリカ・オクラホマ州双子の妹として生まれた。父はアルコール依存症で家庭環境には恵まれず転居を繰り返しながら成長する。大学進学、奨学金を得て芸術学校で水彩画を学び商業芸術家として生きていくことを決める。当時のアメリカは世界大恐慌で思い描いた仕事はできず、紆余曲折ありながら1939年ディズニースタジオに入社する。

当時のアメリカは男性社会でありディズニースタジオも男性中心の会社で原画は全て白黒で表現され、メアリーの色彩りの自由な原画のプレゼンは尽く却下された。例えば、空飛ぶピンク色の馬は茶色く塗られ馬小屋に置かれたり、エメラルド色の空は青く塗られたりと彼女の描くイラストは理解されずにいたのだ。社内の古き伝統が彼女には耐えられず2年働き辞めてしまうが2ヵ月後に復職し、ウォルト・ディズニーだけが彼女の才能を評価し南米への調査旅行へ同行させた。

この南米旅行へ行く前の彼女の作品はどこか暗く少し怖い感じがする。育ってきた環境や時代背景、そして才能がありながら評価されないいろいろなジレンマが彼女の作風に現われていたのであろう。


南米への調査旅行を終えて彼女の作品は激変する。ラテンの貧しくとも陽気な人々やその生活を見て、苦しみや貧しさをカバーする圧倒的な陽気さや色彩豊かなパワーを自分自身の中に共鳴させ、目の前にある純粋なものだけを素直に表現した。

ニューヨークに転居してからは片道5000kmを定期的に行き来し、男の子2人を設けてからも仕事を続けたが、子供との時間を持つため退社しフリーランスのデザイナーとして多くの仕事を行う。母親としての家族との時間を大切にし眼差しを子供に向けつつ、その思いを作品に反映した。彼女の独特の丸みのある可愛らしいキャラクターや色鮮やかでどこか神秘的な作品風は絵本やCM、パッケージなどでみることができる。私も子供の頃に馴染みのあるココアのパッケージが彼女の作品であることに今回驚いた。

前置きが長くなったが今回は彼女から何を学ぶかである。

当時のアメリカは女性が男性社会の中に飛び込んで新たなことをしようとすれば拒絶されてしまう時代であったこと、そして結婚し子供がいても仕事を続けるバイタリティーのある女性であったこと、そしてその好きな仕事の形をきっぱりと変えて子育てに専念する勇気はどこから生まれたであろうか。

彼女が大切にし実践したのは、自らの恵まれない環境から生まれてくる寂しさや悲しさ苦しみを我が子には味あわせたくないという想いと子供達が喜ぶ姿を見たいという思いだけである。フリーで働ける実力があり自分自身でコントロールできる仕事であったからこそだと思うが、それでもバリバリと働いている場所から一線を引くことを決断するだけの重要なものが何たるかを彼女は明確に持っていたのだ。

コロナ禍時代で働き方が様変わりする中手に職を身に付けるということほど強みは無く、そしてどう活かすかはその人物の技量に任される時代がより明白になってきた。私達はまさに潮の変わり目に立たされているのかも知れない。これから5年先、10年先どうするかを子育ても含めて生き方を考えることも必要なのだろう。

メアリ・ブレア、その人は一つのことを全うするために何かを犠牲にするのではなく、今何が大切なのかを明らかにし比重のバランスをとりながらその瞬間瞬間を楽しんで仕事と子育てを取捨選択した人物である。母とは自分自身の時間を子供に分け与えその分母としての成長を獲得し、仕事を持つのであれば自分にあてる時間を差し出してスキルを磨くのである。

何が良くて何が不足ではなく、今何をすべきかを母は考えなければならないのだろう。

メアリ・ブレアの描いた『イッツア  スモールワールド』のような穏やかで色鮮やかな子育ての旅を願うばかりである。

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