偉人『伊能忠敬』

伊能忠敬、その人は日本の歴史上初めて科学的な測量で蝦夷から九州までの正確な地図を作成した。人生の前半は商いや領主との村人との間に入り尽力し、村人や領主からも絶大な信頼を得ていた。商売では今の価値にして30~60億の家財を得て家を盛り立て、後半の人生は子供からの夢である学問に身を捧げ、地球の大きさを知るという目標からやがて測量家として精密に日本地図を製作することを成し遂げたのである。『人生二度の山』を昇り尽くした運命自招の人物である。

50歳で隠居し翌年には江戸出て、十九歳年下の天文学者高橋至時の弟子になる。55歳から17年の歳月をかけ制作した地図は『伊能図』と呼ばれた。

あのオランダ商館医シーボルトが伊能図を書き写させた地図は、日本開国を求めて浦賀沖に来たアメリカの司令官ペリーがそのできに驚き活用していた話は有名であるが、その精密で精度の高い地図の存在によりヨーロッパ諸国は日本の科学技術の高さを知り、小国であれど侮る無かれと認識していたようだ。

今でこそ人工衛星で撮影された地図画像をグーグル・マップで簡単に見ることができるが、200年ほど前に商人である人物が天文学や暦学に興味を持ち本を読み漁り独学で学んで、尚且つ暦学の精度を上げるためには地球の大きさや日本各地の経緯度正確に知る必要があるとし、弟子や仲間を引き連れて正確な測量を行ったことの探究心たるやすさまじい熱量を持つ人物である。


これほどまでに偉業を成し遂げた伊能忠敬、彼はなぜ後世に名を残せたのか。大きく影響しているのは『探究心』である。彼の幼少期については詳しい資料が残っていないが、父は網元で商売をする家に婿養子に入るも妻の死去(忠敬の母の死)により父と兄姉は家を出ることになった。忠敬は幼かったため母の弟のもとで育てられる。商売をしていることから寺小屋で算術を学んで成長する。その後父のもとで育ち学業に対する思いは膨らむばかりである。18歳で酒蔵を持ち金融業・運送業・米の売買を手広く行う伊能家に婿養子に入る、伊能家には多くの書物があり、測量術や天文暦学を好んで読み漁り学問道楽とまで言われた。

彼が生涯を通して学問に身を入れることができたのは幼少期の算術にある。習いどころに通いながら『塵劫記』と言う計算に限らず米の売買・金銀両替・銭売買・利息・枡の法・検地・租税など身近な数学内容を記す算術の本の虜になったのである。商売人の息子である彼にとっては学問でありながら生きるための算法は、大いなる魅力を感じていたに違いない。

子供の探究心をどう引き出すか、子育てをしているお母様にとっては興味深いと思う。夢中になるものを探すことが大前提であるが、そこに本や図鑑が加わることで日々新しい考え方や情報が上書きされ更新されていく。実はこのことが物事の考え方や捉え方のキャパシティーを拡大することに繋がるため探究心もそれに比例して大きくなるのである。

つまり子供の好きなことに見つけたときには本を与え経験をさせよ。その本は子供向けに拘らなくてよい。多少難しい専門書であっても視覚的に満足できる写真や図解があれば十分に楽しむことができる。またその視覚的要素から刺激を受け活字を追いかけ、その意味を知ろうとするようになるのだ。

彼は学びたい、知りたい、調べたいという探究心から自己の欲求のために動いたように思われがちであるが、実は天明の大飢饉では年貢への配慮を願い出て、米の販売分を村人に分け与え、金銭の貧困に喘いでいる人にも分け与えた。人生の前半を人々のために尽くし、その褒美のように後半の人生は多くの仲間に支えられ日本地図が完成したように思う。現代のようなハイテクな技術が存在しない時代に当時できることを行い『人事を尽くして天命を待つ』を行った天文学者であり、測量技師であったことは言うまでもない。


幼き頃に探究心に溢れた経験を持つことは、その後の生き方に深く関係するものだと改めて感じ入る偉人であった。

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