偉人『いわさきちひろ』

私がいわさきちひろさんの作品をはじめて意識したのが、黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』である。中学校1、2年だったような気がするが母から手渡された表紙に品の良さを感じたのである。服は色付けされず白抜きに脚と顔のみの肌の色、茶色の帽子に、えんじ色の手袋、茶色の靴。帽子や手袋は羊毛なのか、靴は磨かれた革靴なのかと想像したことが思い出される。

そして子供を生んでからはちひろさんの描く淡く優しい表紙に惹きつけられ彼女の表紙を持つ絵本を手に取るようになった。

今回は彼女の作品を通して彼女が見つめた子どもの姿を現代の親へのメッセージとして受取ってもらえたらと願う。

優しさ滲み出る彼女の絵には不快なものは一切なく、温かな眼差しで描かれていることから、何不自由なく苦しいこともなく人生を生きてきた方であろうかと想像していたが、人生波乱万丈であることは後に知ったのである。

1918年恵まれた家庭の三姉妹の長女として誕生。幼い頃から絵画の才能はと出していた。その才能を認めた母が13歳のちひろを絵画教室へ通わせ、ちひろはそこでデッサンや油絵を学ぶことになる。女学校卒業後は美術学校への進学を望んだが両親の反対にあい夢は叶わなかった。通常の高等教育を受けた後18歳で洋裁学校へ通い、20歳で親の勧めで最初の結婚をした。しかし夫は満州国・大連で自死しちひろは日本へ帰国する。

自分の力で生きていくと決めた彼女は絵画も書を学び、書家として生きていくことを決めるが戦禍が激しくなり母方の長野に疎開し、そこで戦争の醜さ過酷さに心を痛め、ある政治団体に傾倒していくのである。その後驚愕の経験をしているからこそ清濁併せ呑んだ蓮の花のような作品が描けたのではないかと考える。また彼女のものの考え方や捉え方は濁らずすれてもいない育ちの良さを感じてならないのである。

彼女の作品は子供の柔肌や透き通るような瞳、つやつやとした髪の毛にをそっと触れたくなるような気持ちにさせ、ぷくっとした乳児からあたかもミルクの匂いがしてきそうな錯覚さえ受け、思わず抱きしめたくなるような温かな心持にしてくれます。

ではなぜ彼女の作品が母性愛を擽るのか。

それは息子さんを出産した一人の母である目線で子供達を描いたからであろう。一人息子を出産後、司法試験の勉強をしているご主人の側で生計の糧を得るために挿絵を描かなければならず、その両立が難しく実家へ子供を1年預けたそうである。子供会いたさに片道10時間かけ通ったり、授乳が止まることを避けるためにご近所さんに掛け合いその子供に授乳をして、息子への授乳を断たないようにしたそうである。またそのご近所の子供が俳優の三宅裕司氏というから二度の驚きだ。

彼女の描く子供は全て自身のお子さんであったのだろう。日々子供の手の動きに中止している私からすれば、子供の手や指の動きは観察していなければ捉えることができないものだと考えている。上記の絵だと乳児の左指はやっとこ掴みの発達であることや右手の動きに関しては歯が生えてきて痒みが出て指を口に入れているのではないかと想像ができる。このような瞬間を作品にできるのは、画家としての鋭い視線と母としての温かな視線が織り成しての表現だろう。子供の小さな仕草や動作を見逃すことない母の子に対する想いがひしひしと伝わるのである。

ただ彼女は絵が好きでそれを生業にし、更にそこには母としての愛情が存在し、母となりし人々が彼女の作品で自分自身の子供の愛らしさをその絵に重ね、愛情をさらに大きいものとして成就させる魔法をかけたのだ。彼女自身は当初描く子供に我が子を重ねていたのかもしれないが、やがてその絵の向こう側に世の中の多くの子供を見ていたのではなかろうか。

この世の母親が自分自身の子供を通して多くの子供の幸せを見つめることができたら、この日本で貧困に喘ぐ子供を救える小さな手助けの数が集まり大きな手助けになるのではと考えてしまう。親が想像を働かせて生き、その姿を子供に見せていけば子供同士の繋がりも豊かになるのではないかと考えるのである。

現代の殺伐とした世の中で愛らしいものを愛らしいと感じる感受性をいわさきちひろ作品でお子さんと共に感じて欲しいのである。

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