偉人『慕われた西郷隆盛』

明治維新の大功労者であり西南戦争を率いた人物で身長180cm、体重110kgを有していた西郷隆盛は、大きな体格や大臣のような要職に就いていたにも拘らず驕り高ぶることをしない人物であった。藩主にもはっきりとものを言う豪快さとは裏腹に自ら鍬を持ち田畑を耕し、銭湯では地元の子供達の背中を流したりと偉くなっても庶民感覚を忘れなかった人物である。

彼がなぜ人を惹き付けるほどの魅力があったのかを考えてみる。

尊敬していた藩主島津斉彬の死亡により後を継いだ島津久光が幕府の政治に関わる計画を提案すると、「あなたは田舎ものだから無理だ」と発言してしまう無骨な一面があり基本は大そう口下手であったのである。そのため常に聞き手に回り相手の話が終わるまでは正座をし身を正すように話を聞き、話し手の主張を確りと傾聴し時に頷き時に涙を流し実直に値する以上に謙虚であったそうである。

そしてその態度は誰に対しても同じで戊辰戦争で降伏した相手に対してもその態度は変わらず、謙虚で丁寧な西郷の態度やその後の西郷の心遣いに感銘を受け、降伏した藩士らは西郷が鹿児島で学校を起こしてから多くの師弟を送ったのである。

そうした西郷の人柄は新政府に対する不満を持っていた若者たちの心を惹き付け「西郷さんのためなら自分の命など惜しくない」と感じさせてしまうほどの魅力を持っていた。その点については危うさがあり結局多くの若き志士たちの命を落とす結果に至った事は残念である。

ではここから私のいつもの想像の世界に入る。

西郷隆盛が育った薩摩には郷中教育があった。村の6歳から元服するまでの15歳未満の男児を集め、16歳~24歳までの若き武士が縦割りで郷中教育という薩摩特有の教育を行っていた。集められた男児たちは『負けるな』『嘘をつくな』『弱いものいじめをするな』などの他に、正しい判断を素早く行う力を身に付けるための『お前ならどうする』などの教育を受けていたのである。その結果隆盛は相手の話を確りと聞くということが身に付いていたと考える。

隆盛が流刑を命じられ牢内で暮らしていたとき彼の人柄に惹かれた監視役が、自らの家に招き酒を酌み交わすまでになり島の人に学問を教えたり、農業指導を行い親交を育くんだことも全て大所帯で助け合い育った環境や農業を手伝い貧しい家庭を支え、郷中教育で得たことを上手く実践できたからである。隆盛はどんな困難な状況にあっても愛情溢れ困難なときにも明るく生きてきた西郷家での育ちと『お前ならどうする』『負けるな』『嘘をつくな』『弱いものいじめをするな』という郷中教育で得た自らの指針を実践していたことが彼の人生全てに現われている。子供達が身を置く公的な教育という場所にその地域にあった教育方針というものは本当に重要だと感じる。

また隆盛が多くの人々に慕われるということはやはりそこに誠実さというものが存在すると考える。幼い頃から誠実に生きることを教えることができるのは家庭である。全ての物事をありのままに受け入れ前向きに対処する親の姿を見て育ってきたからこそ隆盛は困難を受け止めることができた。明治維新の立役者は最後の最後まで誠実さを持つ熱き人物だったのである。幕末のイギリス外交官アーネスト・サトウは「西郷は黒いダイアモンドのような瞳を持っていた」と語った。大きな体の西郷が大きな瞳を輝かせ熱心に人の話を聞く、目を閉じ話に頷く、時に涙を流す、その姿にこそ彼の誠実さと優しさが存在し慕われたことが見え隠れする。

西郷が母満佐を慕ったように、彼もまた多くの若き志士たちに慕われた。

『敬天愛人』・・・自分を愛するように他の人を思う。

母から受けたその慈愛によって隆盛はその思いを出会う人々に実行したのである。私達現代の母親もまた我が子を思うことを子に確りと伝え、出会う人々を思う気持ちの大切さを子供に伝えるべきなのだろう。人に慕われる人は人を慕う思いに溢れていたのだと西郷隆盛から学ぶことができる。

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