偉人『シートン道を切り開く』

裕福な家庭に生まれたが一転開拓民としての厳しい生活環境になるも彼にはそのことなど苦にならずカナダの自然と動物に魅了された。しかし父がその生活に耐えられず、大都会のトロントに生活の基盤を移すことになった。これまでの環境とは打って変わり生き辛さを感じたが、トロントではその穴埋めにウサギを飼育し、公園での野鳥観察を楽しみ動物に関する文章を書き出した。将来は動物に関する仕事がしたいと父に告白するも反対され、自分自身の力で進学するための高校進学の奨学金を受取る試験を受け上位者の入る。(3000人中の12位までが受けられた奨学金である。)

今回はシートンがどのように自分の道を切り開いたのかを考える。

高校進学後学業の傍ら鳥の観察に熱中し多くの時間を郊外の川や草原で過ごし、その行動を父に諫められた。厳格で古典的な父は休日を宗教活動に当てることを強要し、反する行動をすると体罰を下した。その厳しい父の管理下の目を掻い潜り、秘密裏に公園へ行き自ら丸太小屋を作り野鳥の観察を行った。当時野鳥を撃つスポーツ的な狩猟が流行し、そのことに胸を痛めネイティブアメリカンの自然との共存に傾倒していく。

更に大学進学を父に申し出、博物学者への道を歩みたいとすると、将来に経済的安定はないと理由で進学を否定された。父の無理解にならば自分でとまた奨学資金獲得の大学試験を受ける道を選んだ。しかし試験の2日前に激しい胸の痛みと息苦しさで倒れ合格間違い無しと言われた道が閉ざされてしまったのである。原因不明の左肺の病に冒されたといわれている。その後闘病生活を送りながら死んだ鷹の骨格を調べながらスケッチをしているシートンに、父は半ば強引に画家になるよう説得し、療養生活後に美術学校に入学させた。その後道を究めるためにカナダからロンドンの大学に進学するも大英博物館を目の当たりにし、どう。しても博物学者の道を諦めきれず図書館へ通おうとするも年齢制限があり19歳のシートンは入館を許可されなかった。しかしこれで諦めるような彼ではない。駄目だといわれればそれを解決する方法を探した。入館許可を願うためにイギリス皇太子、キリスト教大僧正、首相に手紙を出したのである。その熱心さで生涯入館できる館友券を獲得した。

絵画を学びながら今度はパリで学ぶことを決意する。

野生動物を美しく描いた作品として賞賛を浴びた『眠れるオオカミ』

そして批判を浴びた『オオカミの勝利』

上記の作品2点で彼は愛するオオカミを描いた作品で賞賛と批判の両方を味わう。批判を浴びた絵画は野生動物が気高き人間を犯しころしてはならぬ。魂を持たない動物が魂を持つ人間を襲う作品を描くシートンは異端者と見なされた。しかしその裏でこのシートンの作品を認めた人物がいる。それがアメリカの26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトである。また彼のナチュラリストとしての活動を応援したのが自動車を大量生産化したヘンリー・フォードである。

また彼の書く文学作品が博物学的ではなく、文学的で動物の主観的な表現や擬人化、誇張が多く博物的な視点が無いとして夢に見ていた学者への道は遠のいていった。そのお陰で私たちは彼の記した多くの文学を読み、彼の描く動物たちの絵画やスケッチがに出会うことができたのだ。

駆け足で彼が自分自身の道を切り開いてきたことを記してたが、彼から学ぶことは子供の頃に夢中になったものが本物であれば、人生を通して全うするということである。彼のように幾度と泣く父の反対にあっても、自らの健康を害しても彼の心のままに人生が展開し、真摯に向かって生きることで彼を支援する人が集まる。また親として頭の片隅に置いていてほしいのが、子供の行動に対して強い批判や否定、強制などを行うと子供はどうしても実行したくなるものである。全てを頭ごなしに管理下に置こうとすることもしてはならないと肝に銘じておくべきだと考える。

最後にシートンの父はジョセフは彼が生まれた分娩費から自立するまでにかかった費用を彼に請求し、またシートンもペンで得た収入で完済したという。その父の真意がどこにあるのであろうかと考えることも面白そうである。

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