偉人『チャイコフスキー』

クラシックファンでなくても多くの人々が彼ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの曲を耳にしているだろう。私はチャイコフスキーのピアノ協奏曲や三大バレエ曲のレコードを聴きながら成長したが、衝撃を受けたのが小学校5年生の音楽鑑賞の時間である。母はクラシックでも明るい曲を好んでいたためチャイコフスキー曲もご多分に洩れず明るく美しい曲ばかりを聴かされていたのであるが、音楽教室の先生の部屋に行くと「こんな曲もあるんだよ」と言われ聴くことになったのが交響曲第6番『悲愴』であった。

あの憂鬱な始まりから衝撃を受けたことで彼の捉え方が180度変わり、叙情的で、メランコリックで、荘厳的な一面もある彼の人生が気にもなり偉人伝を手にした。でも小学生の私には伝記を読んでも彼の苦悩は理解できなかった。当時の伝記はその人物の光が当たるようなことが書かれていることが多く仕方のないことであるが、子供心に写真の彼の表情と『悲愴』からは不穏さを感じとっていた。

とはいえ母の流すチャイコフスキーは美しく、時には軽やかでついついバレエ染みた真似をして踊ること楽しみ、映画音楽として活用されるポピュラーさもあり今でも好きだが、この年齢になるとその二面性こそが彼の魅力である。

今回は天賦の才を得たチャイコフスキーの幼少期を通して子供の個性をありのまま受け入れ、配慮すべきことについて考えてみる。

1840年5月7日鉱山技師の所長父イリヤとフランス貴族の血を引く母アレクサンドラの次男として田舎町ヴォトスキンスクに生まれた。

当時のロシアの裕福層は子供の教育を家庭教師に任せており、父イリヤも子供に教養を身に付けさせようとフランスからファンニ・デュルバックを呼び寄せ雇った。彼女は当時4歳のチャイコフスキーについてとても感じやすい繊細な子供であったと語り、驚くほど神経質でちょっとしたことでも興奮し泣き出すので『ガラスの坊や』と呼んでいたと語っている。

この神経質な個性は母アレクサンドラに大変似ており、彼女の父や祖父も癲癇の持病を抱えていたといわれている。母自身が大変神経質な個性を持っていたため子供にダイレクトに影響し、家庭教師のファンニ・デュルバックが彼をサポートする役目を担った。

『ガラスの坊や』といわれたチャイコフスキーは、音楽を耳にする機会があった夜は興奮し泣き喚きながら「僕の頭の中にある音楽を取り去って」と強く訴えた。一度音楽が鳴り響くと他のもの全てが消え去り、音が生き物のように頭の中で暴れまわり神経が高ぶってどうしようもない不安に襲われたのである。また母の歌う歌でさえ聴いた後は眠りに付くことさえできなかったともいわれている。

どうしようもない神経の高ぶりを抑えるのも家庭教師のファンニ・デュルバックで、彼女は彼のためにあらゆる方法を試し、本を読んであげることで収まることを発見したのである。4歳のこの頃はピアノにもオーケストラにも近付けないようにしたというのだから、大変な思いをしていたことが容易に想像できる。

家庭教師ファンニ・デュルバックのお陰か精神的にも少しずつ落ち着きを取り戻し、父がお土産に買ってきた現代でいうならオルゴールのようなオーケストリオンから流れるモーツァルトやロッシーニの曲をたいそう気に入り、その音楽的素養に気付いた父がピアノ教師を付けたのが音楽への第一歩5歳のときである。

しかし父の失業とともに家庭教師で心の拠り所であった家庭教師ファンニ・デュルバックが解雇され、経済的理由だと教えられていなかったチャイコフスキーは口が利けないほど落ち込み、闇に突き落とされたとのちに回想している。8歳の彼にとっては母以上の存在を失った最初の衝撃的で精神を病む事であった。

そして14歳で母がコレラに罹患したことが更に彼の中に闇を作っていくことになる。美しい母の身体がみるみる黒い斑点で覆われ、最後は熱湯に浸けられながら絶叫し死亡する様を見ており、生涯その恐ろしい光景が脳裏から離れなかったのである。14歳という多感な年齢で、尚且つ精神面で問題を抱える彼にとっては想像出来ない位の恐怖を味わったのではないだろうか。

この仕事をしていると人の生死を見た子供達の行動について相談を受けることがあるが、人が息を引き取る際に子供を同席させるか否かは十分に配慮する必要があると考える。もし彼の周りに彼の精神的な一面に配慮できる大人がいれば、彼の人生も違っていたのではないか、気持ちを楽に生きる手段を獲得できたのではないかとさえ思う。

チャイコフスキーは後に母の肉体が怖かったと語っていることから彼が生涯包み隠したかった同性愛と深く関係していると考えている。自らの同性愛を隠すために激しく求婚してきた女性アントニーナ・ミルコーヴァに圧される形で結婚するが、僅か20日で彼は家を飛出した。精神的に追い詰められた彼を診察した医師からはこのまま行くと発狂する日も近いといわれ離婚を決意したのである。

彼の人生を考えると常に精神的に追い詰められ通しであった。そして彼が誠実で最高の傑作と言ったのが交響曲第6番『悲愴』である。サブタイトルが第1楽章:全ての情熱、自信、活動への渇望  第2楽章:愛  第3楽章:失望  第4楽章:死 としていることから彼の内面を現した曲である。

精神的に苦しんだ彼の人生も事実であるが、世界的にショパンのように愛される曲を生み出した人生もまた彼の精神性から生まれたものである。人間誰しも二面性がありその比重のバランスをどう取るかでその人の人生とはどうだったかと判断することができる。

私が子供に意識して使用しないようにしてきた言葉がある。それは「ママが子供の頃は・・・』で始る言葉である。その意味に込められるのは子供に対する否定が含まれることがあるからである。勿論全てが否定的な使用ではないが多くのお母様に接していると7割は否定的要素が含まれる傾向にある。

時代の変遷や子供の個性もあり親の思いを押し付けるのは適切とはいえない。しかし親は子供に対し『こうしたらいいのに、ああすべきだ』と思うのもよく分かる。しかし私達親もまたその親の思いをひっくり返すような行動をしてきたのではないだろうか。

子供は親の思いのままに育つわけがないと子育てを一段落した私は強く思う。子供の幸せを思うからこそ『そうあってほしい』と願うのであるが、親の思いのままに育たないからこそ親としての学びが存在するのであろう。

『こうすべきである、そうなるべきである』ではなく、『この道を進めばこの可能性があり、もう一方の道を進めば更に別の可能性がある』と選択肢を増やし提示することが親の役目ではないだろうか。そのことに気付けばどんな子供の状態も、状況も受け入れることができるのであろう。これは時代が移り変わっても次世代へと引き継がれる永遠の親子の学びなのであると確信する。

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